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空海について

空海

●空海の誕生

空海が誕生したのは、宝亀5年・西暦774年、今の香川県高松善通寺です。
幼名は真魚(まお)と言われました。

空海の父は佐伯直田公善通といい、母は玉依姫(阿刀氏)です。父の弟、大足(おおたり)は玉依姫の妹と結婚し、阿刀家の養子となり家を継いだのです。阿刀氏は代々学者の家系で、空海の真魚(まお)はその大足から教育を受けたのです。
真魚は少年時代讃岐国の国学で熱心に学問に励み、七八八年、母方の伯父である阿刀大足(あとのおおたり)の奨めにより都で勉強することになります。

都の大学で学ぶ内に、大学で教えられる儒学では社会の問題は解決できないと悩みました。
そこで、その時一人の沙門(正規に認められた僧ではない)と出会い、「虚空蔵求聞持法」という法を教わります。虚空蔵求聞持法とは虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱えるというもので、これはすごい記憶力がつき、真理に到達できると言われています。真魚は、こうして大学や都の生活を捨てて修行時代に入ることになります。

修検者の中に身を投じ、修行の生活をする内に、土佐国・室戸崎の岩屋で虚空蔵求聞持法の真言を一日二万回となえることを五十日間かけました。最後の五十日目、真魚の口に明星が飛び込んだのです。このとき「我が心そらのごとく、我が心海のごとく」の境地に達し、この日から空海と名乗るようになりました。

●仏門に入る空海

797年、空海は久しぶりに郷里に帰りましたが、両親は仏門に入ることを許しません。そこで空海は、24歳のとき、日本最初の小説?かな!「三教指帰」を書きました。ここには儒教・道教・仏教の三つの教えがそれぞれの立場から書かれ、空海はこの書によって、自分が仏教にひかれた理由を明らかにしたのです。両親はこれを読んで、やっと仏門に入ることを許したといわれています。

空海は諸国の寺を巡り、さまざまな経典を読みつづけ、大和国の久米寺で「大日経」を発見します。空海22歳から25歳頃のことです。空海はこの教典に魅せられたのですが、
当時この教典を解説できる者は、日本にはいなかった為、唐に渡る決意をするのです。

804年、肥前国田浦から四隻の遣唐使船が出航しました。空海たちは、長期留学(最低でも二十年)の留学僧であったのです。同じ時に遣唐使船に乗った最澄は、国費留学の短期で帰る還学僧で会ったのです。
中国に着いた空海は、まず梵語を学び、そのほかたくさんの文化や宗教も学びました。

儒教、道教、景教、拝火教、などです。そのほか土木技術や、最新の文化技術を学んだのです。
空海は早速西明寺を訪ね、ここで、留学僧として三十年間も長安で学ぶ永忠に出会い、大日経について学ぶならば、青龍寺の恵果和尚であると知ります。

805年、空海は青龍寺の恵果和尚の門を叩きます。恵果和尚も空海の訪問をたいそう喜び、他の弟子の驚きを制止して、密教のすべての知識を伝える作業を始めたのです。そして、密教の法を伝える灌頂を受けることになったのです。伝授は3ヶ月かかり、恵果和尚より「遍照金剛」の名前を授かりました。その間、普通10年かかることをすべて学んでしまったのです。恵果和尚は空海に対し、日本に早く帰って密教を広めることを願い、これを遺言としてなくなりました。密教の正統は中国を離れ、空海によって日本に伝えられたのです。

空海は20年間の留学の予定を切り上げ、すぐに帰国しました。
この問題は、死罪にも当たる重大な罪になったのですが、一足先に日本に帰っていた最澄が、彼を助けたのです。それは、最澄が還学僧であったため、密教は十分学ぶことが出来なかったのです。それで、空海の密教を学びたいと思い天皇に進言したのです。

●真言宗と空海

こうして空海は、809年京にはいることを許され、高野山で真言宗の法灯を掲げることが出来るようになりました。
こうして、最澄(天台宗の完成の為に密教を取り入れようとした)と空海の交流が始まったのですが、813年、最澄より「理趣経釈」(理趣経の注釈書で、密教の経典の中でも最も大切なものであり、密教をよほど深くおさめないと読む資格がない)で、二人は対立し袂を分かつようになります。

その間空海は、各地の土木工事を指揮したり、讃岐の国の満濃池の堤を造成したり、(いまだに当時のまま残されており、現代の土木工法でもびっくりするくらいらしい)庶民教育の学校「綜芸種智院」を作ったり、と精力的に活動してきたのです。

823年、時の帝嵯峨天皇より東寺の完成を命じられます。東寺が完成したのは空海の生前ではなく839年のことです。そして、824年には、神泉苑(しんせんえん)において雨乞いの修法を行い、干ばつにあえぐ人々の信望を集めたとあります。

その空海も死からは逃れられません!先行きの短いことを知った空海は、京を離れ高野山にこもります。弟子達をそれぞれの任に尽かせて、835年3月21日、56億7千万年ののち、弥勒菩薩がこの世に出られるまで、生きとし生けるものすべてを見守るという誓願のもと、永遠の禅定に入り弟子たちの前から姿を消したのです。

空海の伝説は各地にあります。全国の温泉の3分の1は空海が見つけたことになっていいたり、そのほかの様々な奇跡は空海が起こしたことになったりしています。それは、事実と異なっているでしょうが、それほど空海は民衆の為に尽くしてきたことがわかります。

921年、醍醐天皇は空海にその功績を称えて弘法大師の称号を送ったのです。その報告のため高野山に上った東寺長者の観賢は、禅定に入ったままの空海の姿に会ったと伝えられています。