■★第6代将軍足利義教の目的と作戦
それは、今までの将軍ができなかった絶対権力への挑戦です。それは鎌倉幕府と違って、足利幕府が諸大名の連合体という成り立ちからの宿命のようなものです。この不安定な政権が様々な混乱を招いていることは確かなことでありました。その為に打った手は次のようなものです。
@奉公衆という将軍直属の軍隊の強化
@九州統一
(南北朝の争乱以来九州は中央に従わない勢力の中心地)
B比叡山延暦寺の攻撃
この時期の寺というのは、宗教的権威を笠に着て、武力を持ち、世俗的な利権を蝕むどうにもならないやっかいな存在であったことは確かなのです。いわゆるヤクザを思い浮かべれば妥当なところと思います。これは将軍義教自身が比叡山延暦寺の座主であったことから、内情はよく知っているということからわかります。
C関東公方の攻撃
こうして足利義教は幕府に従わない勢力をことごとく滅ぼして行くという戦略をとったのです。
そもそも何故京都の室町に足利氏は幕府をおく必要があったのかということですが、ここには南北朝の争乱が糸を引いています。後醍醐の残した負の遺産として南北朝という戦わなくてもいい戦いをしなければならなかったことは、朝廷政治の馬鹿げた一面を見せつけてくれました。
この南朝の立てこもる拠点が京都の吉野であることを思えば、遠方の鎌倉に幕府をおくことはできなかったのです。それに、北朝の天皇は足利氏がたてた天皇でありますから、幕府が朝廷をコントロールできたということも室町に幕府がおかれた理由になるということなのです。
そこで、関東の鎌倉には重要な拠点として、関東武士団の統率に幕府に匹敵する重きをなす必要があったために、足利一族より選ばれたものが関東公方(将軍)として赴任したのです。
これは当然に二重権力構造になりますから、足利幕府は内紛をいつも抱えることになるのです。
こういう理由から、権力の一元化を図りたい足利義教は、幕府に楯突く関東公方を攻撃することになってしまうのです。
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