当時の石山本願寺の位置を見てみよう!
「石山は上町台地の北端にある小高い丘で、真下で淀川と旧大和川が合流し、その付近に淀川水系や瀬戸内海の水運の拠点で、住吉や堺、紀州に向かう陸上交通の起点でもある渡辺津が形成されていた。蓮如の隠居坊から次第に拡大して寺内町を形成して商工民などが住み自治が行われた。この寺内町が、台地にそった坂にあることから「小坂」、後に「大坂」と呼ばれるようになった」
信長の先見性がわかるような気がする。
★信長の野望・目指したものをまとめてみよう!
@天下布武 A貴族ではなく武家政権を中心とした平安楽土
★この理念を実現するための信長の戦略は何だろうか?
@他の武士勢力には、武力による服従と市場経済による復興
A海外侵略による領土拡大
B宗教勢力には、信仰の自由の保障、但し服従しない勢力には弾圧
C朝廷の権威の消失
D自らが権威の中心となり、生きながらにして神になること
この戦略のモデルパターンをつくって見せたのが安土城である。
★信長は何故本能寺の変で非業の死を遂げたのか?
その理由は、彼の運命式の流運にあると見てよい。
<この時期の信長の流運>
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23 19
非常にアンバランスですが、極端な働きを見せています。
それは、自分の世界がものすごく強くなり、傲慢になります。その一方で独創性はますます磨きがかかるようになり、愛情運は気配りのないものにいらだつようになります。また部下や対外的な人間関係では、細やかな配慮のないものとの間にトラブルがおこるようになります。
このことから、信長はこの時期のポイントは、己に厳しくあって油断してはならないというものでした。それが守れなかったところが天が見放した原因ではないかと思います。