■鷹山公(治憲)の米沢藩改革のリーダー達
◆隠居する前までのリーダーは竹俣当綱・・前期改革
鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居ということになったのである。
<竹俣当綱の運命式>
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★竹俣当綱について!
米沢藩の上士階級である侍組分領家の一つ竹俣氏当主の竹俣充綱の嫡子である竹俣本綱の子に生まれる。3歳の時に父本綱が死去。このため延享3年11月19日(1746年)に祖父の家督及び知行1000石を相続。
重定の信任を得て藩の実権を握っていた森利真と対立し、宝暦7年(1757年)に300石削減され、閉門となる。
宝暦9年(1759年)に藁科松伯が重定の侍医となるが、後に神保綱忠や莅戸(のぞき)善政らとともに藁科に師事する。宝暦10年(1760年)に藩の極度の財政破綻のために藩主上杉重定に江戸幕府への米沢藩返上を進言。
宝暦11年6月(1761年)に会談所奉行になり、同年8月3日江戸家老に昇進、翌年(1762年)には300石加増され、1000石に復する。