44歳で転職若手に学ぶ
●44歳で転職若手に
学ぶ
溝呂木 斉(みぞろぎ・ひとし)さん
ディスコ社長
「専門性を高めれば高めるほど、新しい技術が生み出され、ビジネスチャンスも広がってくる」=田中成浩撮影
溝呂木 斉(みぞろぎ・ひとし)さん
ディスコ社長
1939年、神奈川県生まれ。62年慶大経卒、横浜ゴム入社。83年にディスコ入社。89年常務、98年副社長、2001年に社長。
■偶然のきっかけ
円盤状のウエハーに焼き付けられた幾つもの半導体を、ダイヤモンドで一つずつチップに切り分ける「ダイシング」という半導体切断装置。ディスコは世界市場の7割、国内では9割という圧倒的なシェア(占有率)を誇る。
溝呂木が東京・大田区にあるこの会社に転職し、社長まで上り詰めたのは、大学の空手部時代の縁が生んだ「全くの偶然」がきっかけだった。
横浜ゴムでは営業畑を歩み、課長まで順調に昇進した。1982年のある日、東京・新橋の中華料理店で部下と食事をしていると、隣のテーブルの客から声をかけられた。
空手部の1年後輩で、ディスコの専務を務めていた創業一族の関家臣二だった。卒業以来20年ぶりの再会に盛り上がり、部で2年先輩だった臣二の兄、憲一も副社長として活躍していることを知った。
その数日後、ディスコの関係者が溝呂木を訪れ、いきなり転職を持ちかけられた。
上場企業の課長が会社を移るなど、考えられない時代だった。しかし、憲一から直接「急成長しているダイナミックな業界だ」と強く説得され、「サラリーマン生活の残り半分を、違う業界で過ごすのもいいかな」と思った。
翌年3月、営業企画部長として44歳で入社した。臣二から、新橋の店では「こんなに一生懸命仕事の話をする上司も珍しいな」と隣の客の会話に感心し、何気なく顔をのぞいてみたと聞かされた。
転職当初は専門用語や図面の見方が分からず、社員から必死に知識を吸収した
需要が落ち込み、初の赤字に転落した93年当時、事業部長になっていた溝呂木を、20代の技術系社員が毎日訪れ、新機種の提案を繰り返した。
最初は平凡だと思っていたが、内容はどんどん魅力的になっていった。その社員を筆頭に、「Xプロジェクト」という若手15人の開発チームを作った。苦しい時期だったが大きな予算を与え、「若手が勝手にやっている」という反発には自ら防波堤になった。
やがて6機種が完成した。いずれも徹底的にコストを削り、幅が半分の50センチという小型装置の開発も成功した。「面白いように売れた」と振り返るように、若手の意欲が会社のピンチを救ってくれた。
■シェアに頼らず
社内共通の価値観などを定めた「ディスコバリューズ」で結束を強め、売上高が最高を記録した2001年、憲一から社長のバトンを渡された。直後にITバブルがはじけ、翌年は18億円の赤字に。変動が激しい半導体市場の荒波をいきなり受けたが、「これ以上悪くならない」と開き直った。
07年3月期の連結売上高は860億円と最高を更新した。約2400人のトップとして、「シェアに安住せず、『切る、削る、磨くはディスコしかない』と言われる会社にしたい」と夢を描く。
(敬称略)
香取直武
(2007年11月26日 読売新聞)
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■リーダーの運命式はやっぱりリーダー的である
「溝呂木が東京・大田区にあるこの会社に転職し、社長まで上り詰めたのは、大学の空手部時代の縁が生んだ「全くの偶然」がきっかけだった。
横浜ゴムでは営業畑を歩み、課長まで順調に昇進した。1982年のある日、東京・新橋の中華料理店で部下と食事をしていると、隣のテーブルの客から声をかけられた。
空手部の1年後輩で、ディスコの専務を務めていた創業一族の関家臣二だった。卒業以来20年ぶりの再会に盛り上がり、部で2年先輩だった臣二の兄、憲一も副社長として活躍していることを知った。
その数日後、ディスコの関係者が溝呂木を訪れ、いきなり転職を持ちかけられた。」
溝呂木社長が横浜ゴムにそのままいても、それなりに大企業でリーダーとしてやっていくことができたはずである。
それくらいに運命式は安定している。
その溝呂木斉さんの運命式を見てみよう!
<溝呂木斉さんの運命式>
25 24 32
21 33 19
29 9 20
<溝呂木斉さんの流運>
14 14 12 19 11 11 12 10
11 9 16 16 17 15 16 16
溝呂木斉さんの運命式からは、トップに必要な資質というものがよく見えてくる。それは、細心さと大胆さだ。
この2つを兼ね備えるのも、そしてこのバランスをとるのも実は難しいのだ。
溝呂木斉さんの場合は、こういう細心な気配りの世界を自分の内面に持ち、同時に本質的には男気のある大胆さを持っているということがいえる。
ただこういう資質があるからといってリーダーになれるかというと、そんなに甘くはない。
溝呂木斉さんのそれぞれの運勢もバランスがいいといえる。
◆仕事運が物作りに向いていた
「転職当初は専門用語や図面の見方が分からず、社員から必死に知識を吸収した需要が落ち込み、初の赤字に転落した93年当時、事業部長になっていた溝呂木を、20代の技術系社員が毎日訪れ、新機種の提案を繰り返した。
最初は平凡だと思っていたが、内容はどんどん魅力的になっていった。その社員を筆頭に、「Xプロジェクト」という若手15人の開発チームを作った。苦しい時期だったが大きな予算を与え、「若手が勝手にやっている」という反発には自ら防波堤になった。
やがて6機種が完成した。いずれも徹底的にコストを削り、幅が半分の50センチという小型装置の開発も成功した。「面白いように売れた」と振り返るように、若手の意欲が会社のピンチを救ってくれた。」
こういう物作りの現場で、営業職からやって来て物作りのスピリットを造成できるかというとそれはなかなか難しいのだ。こういうプロジェクトチームが成功したのは、溝呂木斉さんの運命式に創造的な仕事運を持っていることが幸いしたのだ。
もちろんそこには、大胆さと細心さという資質がうまく働いていたことはいうまでもない。
このバランスがうまくとれるというのは育ちが良かったことを物語っている。
■創業家の人々の運勢
溝呂木斉さんをヘッドハンティングした創業家の人々はどんな運勢であったのかを考えてみよう!
企業は人なりという!人によって企業は生き延びることもあるし、逆にしぼんでしまうこともある。常に変転する中に活路を見いださねばならないのだ。
部活仲間であったという縁でスカウトしたのだが、そこにはやはり人を見る目というものが必要であった。
「臣二から、新橋の店では「こんなに一生懸命仕事の話をする上司も珍しいな」と隣の客の会話に感心し、何気なく顔をのぞいてみた」
それを感じ取った関家臣二と関家憲一の運勢を見てみよう!
<関家臣二さんの運命式>
26 24 31
16 33 17
23 9 19
<関家憲一さんの運命式>
25 24 40
15 41 26
31 17 27
この二人の創業家の兄弟の運命式はおもしろい。さすがにいい運勢をしている。だからこそ、次の時代に必要な人材を見つける能力や運勢があったといえる。
目的指向型の憲一さん、自分が一番だと思って、自分の世界をしっかりと押し通す臣二さん、この二人の特徴はいずれもリーダーとしては素晴らしいが、組織が大きくなる中で、複雑な組織を有機的に運営するには少しかたくなりすぎている運勢だ。そういうところへ溝呂木斉さんに出会ったというわけだ。
だからこそ、バブル崩壊後の危機も彼の持つ運勢力で会社が生き延びることができた。そういう決断をする創業家もやはり力があったということである。
■「ディスコ」良質な企業文化の3か条
①組織の考え方の基準を、社員とある程度の線で合わせる。その為の戦略を徹底し、健全な成長を促す。
②どんなに大きな組織でも、目的に向かって1人の人間のように動けることが理想。社員が有機的につながることが重要。
③昨日より今日、今日より明日と一歩ずつ進む。世の中の役に立ったときが我々の成長だ。
●ポイント
新しい血の導入というのは、できそうでなかなかできないものである。それをやってのけた創業家の人々も凄いが、自然体で受けて立った溝呂木斉社長も凄い。ディストリビューターで動き出したエンジンが安定した動きをするには、ディストリビューターに変わるシステムがなければならない。そういう意味では、力強さから調整型へと良い意味での転換を果たしたといえる。
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