さて話を信長に戻そうと思う。志半ばにて本能寺に倒れてしまった信長であるが、その信長は何を目指そうとしていたのか?
そのことを探ってみなければ、それから以後の日本のデザインがわからなくなってしまうことになる。
信長は良くも悪くも新生日本の起源となった人物である。
日本の歴史は信長以前と信長以後とに分けて考えてもいいくらいである。それがわかりにくくなったのは、信長が本能寺で倒れてしまったからである。そして秀吉へと嗣がれていくようになる。
信長が何を目指していたのかというキーワードは、実は一向一揆になる。一向一揆というよりも石山本願寺との戦いといった方がいいかもしれない。この石山本願寺にキーワードがあるということだ。
何故石山本願寺なのか?それは信長の天下統一後のデザインを考えれば分かることになる。
そのヒントは、安土桃山城である。
★安土桃山城を検証してみることにしよう!
その前に、安土桃山というのは変な呼び方である。安土はわかるが桃山というのはどうかということである。これは後世に桃山とつけただけであって当時の人々がこう呼んでいたのではない。桃山は、秀吉が隠居して住んだ城が伏見城であって、その伏見城の後が桃の栽培地になっていたから、こう呼ばれるようになっただけという何ともお粗末な話である。
先ず信長の動機は何だろう?
信長は宣教師のフロイソなどから様々な海外の政治情報なども聞いていたに違いない。それに、上洛したことで都の様々な政治状況をつぶさに見てきたに違いないのだ。そこに織田信長という男が掲げた理念と理想があったはずだ。そこを見てみれば、信長の動機が浮かび上がってくるだろう!
その基本は岐阜にある。
天下布武・・・武家の政権を立てて天下を統一する。この印を岐阜城に入場してから用いている。ここに、信長は最初から武家政権を創造することを目指していたと考えられる。
歴史の教科書には、織田信長の業績では「楽市楽座」があげられている。しかし、既に楽市という発想は行われていて、信長はそれを大規模に行って見せたのである。