この宗教勢力の牙をどうやって抜くかということが時の為政者にとってはとても重要なことになるのである。
信長の場合は、総見寺を建てて自己を神格化し自分の元に全ての宗教勢力をそこに服従させようとした。
秀吉の場合はどうかというと、大仏建立を企画したということである。その前に、秀吉は刀狩りをやっている。その理由は何かというと、もちろん農民から武器を取り上げることで一揆などの武装蜂起を防ぐ目的もあったけれども、それ以上に、この「刀狩り」での金属は大仏に使われる功徳があるというものだった。そして平和が豊臣政権にて確立されることを説いている。
大仏建立の最大の目的は、実は宗教勢力を秀吉の管理下におくということなのである。この大仏を安置した寺は方広寺であるが、この大仏建立をして秀吉は千僧供養をしている。これは各仏教流派にこの供養のセレモニーに参加をするように招待状を送ったのである。これに従わなければ、弾圧するということがはっきりとわかるものだ。だから、ほとんどの流派がこれに参加して秀吉傘下に入り、管理されることになったのである。
これも信長が引いた戦略で、たとい宗教といえども、軍門にくだらなければ比叡山のようになるぞという脅しがきいているのである。宗教勢力の武装解除と各宗教毎の内部対立宗教間戦争というのは、避けなければならない重大な政治課題であったということがよくわかる。
こうして、宗教が政治勢力になることを防ぐと同時に、その信仰の自由まで奪うものではないというものであるということをしっかりと固定しなければならなかったのである。
D自らが権威の中心となり、生きながらにして神になること
秀吉は生きているときには、神になるということは全くできない相談だったが、死んでから豊国大明神として、方広寺の鎮守社として建立された。
しかしこれは、神になるということが目的ではなくて、新たなる権威を立てなければこの國を保つことができないからという理由である。その意味では、秀吉が神になっても、あらたなる権威というものが生じたわけでもなく、豊臣政権が滅びれば自動的に消滅する運命にあったといってよい。
その意味では、信長の描いたデザインは、秀吉で完成されることなく次の政権に引き継がれることになったのである。