その為に、神社仏閣を要所要所に配置している。そして、そこには王城鎮護という宗教的な権威が生じることになった。
こう考えてくると信長の求めた平安京は何だったのか?信長の平安楽土とは何かということである。軍事力を中心とした、政治経済宗教の一元化した機能的な制度が整った世界ということになる。絶対王政を目指していたのかどうかということになると、信長が倒れてしまったので何ともいえないが、たぶん絶対王政から帝国主義的な支配を目指していたと考えられる。
そういう意味では、単なる封建領主による支配制度というよりももっと進んだ考えを持っていたといえるのではないかと思う。
それは新たなる権威の確立ということになる。
※■平安京 平安京の誕生
延暦13年(794)10月28日、桓武天皇は、遷都の詔を発布し、平安京が誕生しました。人々は「平安楽土万年春」と囃し、新しい都の誕生を祝いました。
その後、源平の争乱、応仁の乱、豊臣秀吉による都市改造、幕末の混乱期など、都市としての様相を変える事件が多々あったにも関わらず、明治天皇の東京行幸(1869年)まで、京都は日本の首都であり続けました。
平安京の構造
南北5.3キロメートル、東西4.6キロメートルからなる平安京は、厳密な左右対称の都市プランを持つ理想的な都市計画がなされていました。
京の中は大路と小路によって整然と区画され、町(一辺が40丈、約120メートル)という単位で成り立っています。中央には幅80メートルの朱雀大路が走り、それを挟んで東側を左京、西側を右京と呼ばれました。左右の両京には、東寺・西寺、東市・西市、迎賓館にあたる東西の鴻臚館などの諸施設が配置されています。
平安京の中枢は、北辺中央に位置する大内裏(平安宮)です。大内裏の中には、天皇の住まいである内裏、貴族たちが政務を執る官庁が集まっていました。大内裏の中心建物群が、朝堂院です。その西隣には、公式の宴会場である豊楽院があります。■※