その観点から、信長と信長以後を見つめていくと理解できるようなことが多くあるのである。
だから安土城の位置が問題であった。
信長が尾張を平定し、今川義元を破り美濃を攻略したその背景は、農業政策というよりは、楽市楽座による商業の振興で、農業を含めた複合的な経済発展を目指したと考えてよい。そして、その経済力による兵農分離をして、弱い尾張兵を訓練していったのだ。
信長の独創性は、彼の持っている運命式にもよるが、その必要性をもたらしたのは、天下布武という理想を打ち出したが、現実は弱い尾張兵で何ができるという問題であった。その問題解決の妙案が彼の独創性によって生まれたものである。
<織田信長の運命式>
31 23 32
26 40 14
35 17 22
だから、安土城の位置である。
この地政学的な位置は、京都に睨みをきかせるに
最もいい位置であり、東からの勢力の京への介入を
防ぐポイントでもある。それに、当時の安土城は
水運に恵まれていたのである。信長によって安土城が
築城された当時、安土山は西の湖と伊場内湖によって
三方を湖で囲まれていたとされるから、天然の要害で
あると同時に、交通・商業のの中心にもなれる位置にあったということである。
そして信長は、何故本願寺の一向宗と争うことになったのか?何故仏敵として徹底抗戦をするようになったのかということである。
それは、信長が石山本願寺を欲しがったからである。この本願寺の地政学的・経済的な位置が重要であった。
ここに信長の偉大なる独創性がある。当時は誰も農を離れて軍を形成することはできなかった。それに、守りも攻めも要害である必要性から山城が築かれることになったのだが、信長はあえて平野に城を求めた。そして、城を軍務よりも政務を執り行う場所として、その機能を拡充したのである。そして権威の象徴として城造りが行われるようになる。そういう全てのモデルとして、安土城が建設された。この城がモデルとなって、その後の全ての城造りが行われたということになる。
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