ここで鈴木史朗さんの流運は、本体の主体性のなさなどとは打って変わって、なかなかいい運勢を持っているということがいえる。だから、鈴木史朗さんの外的な運勢に対して、精神的な世界や心の世界は相当しっかりとしていたということがいえる。
★15才くらいまでの流運
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中学生を終わるくらいまでは、とにかくこの運勢からいくと希望を持ち、多くの人と交わる中で運勢をつかむことができた。精神的には充実したときでもある。
……☆☆戦争に負けて中国から日本へ引き揚げる
戦前、父が中国・北京で貿易会社を興し、2歳で中国へ。生活は日本の敗戦を機に一変。父は財産を没収され、スパイ容疑で拘束された。7歳の時、日本に引き揚げるため、4歳と3歳の妹の手を引き、自分も荷物を背負いながら、母と百キロ以上を歩き通した。「日本には希望があるという思いと、『長男で日本男児だから、妹2人をしっかりみろ』という母の言いつけで頑張れた。自分を信じるしかなかった」
京都の親類宅に身を寄せたが生活は貧しく、勉強も遅れていた。陸上部主将だった中学2年の時には腸閉塞(へいそく)に。これを、元軍医が麻酔なしで開腹手術した。あまりの痛さに悲鳴を上げ、ビンタされて気絶。術後はショックで水も受け付けず、2か月間寝たきりになった。鼻の穴から入れた太いゴム管で栄養をとるという苦しさも経験した。
……☆☆アナウンサーを目指した
そんな生活の中で得た自信が、アナウンサーの原点だ。中国で覚えた標準語は京都で一目置かれ、少年合唱団では声が評価された。努力して成績を上げ、小・中と生徒会長を務めると、人前で表現する喜びも知った。玉音放送の進行役を務め、ラジオ番組「話の泉」の司会者でも知られるNHKの和田信賢さんの著書を読み、「人間の修養を積んだ者が人前に出るべきだ」という一文に感銘を受けて、アナウンサーを志した。
★30才くらいまでの流運
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