だから隆景は、戦況と人物をしっかりと見据えることができたといえる。そのことが隆景の運命を切り開くことにつながっている。
何がいるか、何がいらないか、それがよく見えていた武将といえる。
だからこそ、「義」を貫いた武将になれたのだろうとおもう。
運命式のバランスは戦略思考ができて、状況をうまく取り入れながら、人のつながりを作ることができてとてもいい。
◆谷忠澄:
あまり知られてはいないが、彼は長宗我部元親の重臣であり、先祖は長宗我部家にゆかりの深い一宮神社の神主ということらしい。
その谷忠澄にはとても有名になった史実がある。それは、秀吉の四国征伐の時のことである。忠澄はこの戦いが無益なことを知っていて、元親に何度も言上したが拒絶された。
そこで忠澄は阿波一宮城に立てこもって籠城戦を豊臣秀長の軍8万にたいして行った。これに業を煮やした秀吉は怒って自らが出陣をすることになった。そこで、秀長は一次休戦をして、この戦いの無益さをとくことになった。もちろん忠澄はよくこの戦いの意味を知っているので、元親を再度説得した。
それでも元親は忠澄に腹を切れと激怒した。結局重臣達は決戦を覚悟したが忠澄は三日三晩かけて重臣達を説得し、連名で元親に再考を促した。こうして長宗我部は秀吉軍に従うことになり、長宗我部家は存続することができたのである。
また、秀吉軍の九州征伐の時には、秀吉軍に従っていた長宗我部元親の長男信親が島津軍との戦いで戦死してしまったのである。それほど激しい戦いであった。時の島津軍の大将は新納忠元である。
長男を失った元親は悲嘆に暮れて、魂の抜け殻のようになってしまった。元親は忠澄に長男信親の死体を引き取るように頼み込んだ。これは実際に無謀なことで今戦っている敵陣に行って、死体引き取りの交渉であるから無謀である。
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