に譲ったのは、重定が存命中に治広に家督を継がせることで養父を安心させたいという鷹山の心遣いだったとされる。
米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。
この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。もうすぐ鷹山(治憲)が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。
それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。やがて江戸から帰ってきた鷹山(治憲)は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。
そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」
と言って、橋を歩いて渡った。
武士たちの感激は言うまでもない。鷹山(治憲)は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。
鷹山(治憲)は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考えた。
しかし、とてもそれだけの資金はない。そこで鷹山(治憲)は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。
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