また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。
★1785年 上杉治広(上杉重定の実子)に家督を譲り
隠居しながら改革を実行。 剃髪して、鷹山を号す
鷹山存命中の藩政改革は、竹俣当綱をリーダとして、産業振興に重きを置いた前期の改革と前期の改革後の隠居から復帰した莅戸(のぞき)善政をリーダとして、財政支出半減と産業振興をはかった「寛三の改革」と呼ばれる後期の改革に大別される。
鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。
◆伝国の辞
伝国の辞(でんこくのじ)とは、鷹山が次期藩主・治広に家督を譲る際に申し渡した3条からなる藩主としての心得である。
伝国の辞は、上杉家の明治の版籍奉還に至るまで代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承された。
一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
右三条御遺念有間敷候事
天明五巳年二月七日 治憲 花押
治広殿 机前