また、莅戸(のぞき)善政の人気運はリーダー型ですから、人をひっぱていく力はあると思います。それは、命令するというよりは、目標や目的に対してどうするべきかというリーダー像になりますから、自分のわがままを通すということにはならないと思います。
このように運命式をみていきますと、非常にバランスのとれた運命式を持っていますから、改革を実現するには適役ということがいえます。
問題は、強い個性がない分だけ組織の中ですぐには目立たないということになります。ということは、誰かの後ろ盾や先人達の失敗などの実績の土台の上に活動すれば可能性が高くなるということです。
★★莅戸(のぞき)善政の業績について(ウィキペディアより)
しかし、天明2年(1782年)に竹俣が不行跡故に隠居及び蟄居命じられた翌年の天明3年(1783年)に本人に失態はなかったものの、小姓頭を辞職の上、隠居する。
しかしすでに莅戸(のぞき)の名声は江戸まで伝わり、天明7年(1787年)に実父秋月種美の看病で江戸にいた治憲に対し、江戸幕府将軍徳川家斉から、在職中の莅戸(のぞき)について賞され、羽織3領拝受されるほどであった。
竹俣らの後に藩政を主導した志賀祐親の財政再建失敗や士風退廃などにより、藩士より上程された多くの意見書や中条至資の推挙により、隠居の身でありながら寛政3年(1791年)に再勤の上、復活した中老職に任じられる。
善政は改革政策の大綱である「総緋」を発表し、郷村頭取と勝手方掛を兼務し500石となり、丸山蔚明(平六)や神保綱忠(容助)、黒井忠寄(半四郎)らと、後世に寛三の改革と呼ばれた改革に着手する。
さらに寛政10年(1798年)には、これまで基本的に上士階級である侍組しかなれず、ほとんど侍組でも上級の家格である分領家が就任していた[1]奉行に就任し、石高1000石となる。
これにより名実ともに藩政改革を主導することになるが、一方で神保綱忠とは対立を深め、自らの死後の神保の台頭を防ぐため、後嗣の政以を自らの補佐も兼ね中老職に任じた。
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