★★莅戸(のぞき)善政のこと
「安永4年(1775年)に興譲館惣監を兼務。しかし、天明2年(1782年)に竹俣が不行跡故に隠居及び蟄居命じられた翌年の天明3年(1783年)に本人に失態はなかったものの、小姓頭を辞職の上、隠居する。
しかしすでに莅戸(のぞき)の名声は江戸まで伝わり、天明7年(1787年)に実父秋月種美の看病で江戸にいた治憲に対し、江戸幕府将軍徳川家斉から、在職中の莅戸(のぞき)について賞され、羽織3領拝受されるほどであった。」
★天が味方をする上杉鷹山公
上杉鷹山公の改革はあまりにも苦節に満ちたものであったが、最後まであきらめなかったことが天をして、次のチャンスを与えてくれたものと解釈することができる。それほどに、改名という問題と時の事情や状況というのは関わりがあるということなのである。
よく思想というのは、その時代の課題を解決するために生まれてくるといわれるが、運命式も同じであって、その時々の大きな課題を解決するために鎧を身にまとって、戦にふさわしい身支度をするようなものなのである。
天が味方をする改名をするということが実は、大願を成就するということにつながるということなのだ。
■米沢藩を窮地に陥れてしまった藩主上杉重定
★上杉重定の藩運営の実態
米沢藩では減封が相次ぎ、第4代上杉綱憲の末期養子としての襲封を認める代償に15万石にまでなっていた。それにもかかわらず、藩士召し放ちを行なわなかったこともあり藩財政は極めて劣悪であった。寛延3年(1750年)以降から、それまで臨時的に行っていた藩士からの半知借り上げが常道化する。
宝暦3年(1753年)に村山郡の預領を替えて、越後国岩船郡に割替となる。