その一方、東叡山寛永寺中堂普請手伝いを江戸幕府より命じられて工事費5万7千4百両を費やした。加えて宝暦5年(1755年)には藩内を大凶作が襲い、凶作被害損毛高7万5千8百20石余りとなり、城下で原方衆に煽動された百姓による富商宅の打ちこわし事件も発生する。また宝暦10年(1760年)に青苧騒動が起こる。
藩政は藩主・重定の信任を得ていた奉行筆頭の清野内膳秀佑が、清野が引退後は与板組出身の側近で、後に郡代所頭取兼小姓頭となる森平右衛門利真らによって牛耳られていたが、領民の反発を買って宝暦13年(1763年)に森平右衛門は竹俣当綱に呼び出されて刺殺される。
そしてその一派は粛清された。それでも藩財政の苦しさは変わらず、宝暦10年に竹俣の出した進言に従い、尾張藩[2]を通して幕府に藩土返上のうえ、領主を辞めると言う事を相談し、宝暦14年1月(1764年)にはこれを諌められ取り下げている。
このような財政逼迫の情況の中、宝暦9年に日向国高鍋藩藩主秋月種美の次男松三郎を養子とする内約を結び、宝暦10年には実子が生まれたのにかかわらず養嗣子として迎えた。これが上杉治憲(鷹山)である。また、藩医の藁科松伯の薦めにより細井平州を招き、明和元年には治憲とともに講義をうける。
★上杉重定の人となり
・重定はあまり政務に興味を示さず、基本的に家臣に政治を丸投げしていた。
・隠居後も余り政治に口出ししなかったが、鷹山(治憲)が厳しい倹約令を出して家臣団から凄まじい反発を受けた(反対派の家臣芋川延親が鷹山(治憲)の袴の裾を掴んだ事もあったとされる)ことがある。
これに重定は「養子とはいえ我が子に無礼である」と激怒し、改革の抵抗勢力であった色部照長や千坂高敦を蟄居閉門、須田満主、芋川延親を切腹にす