るなどの厳しい処罰、改革のブレーン細井平洲に嫉妬し抵抗勢力のブレーンであった藁科立澤も斬首(七家騒動)に処した鷹山(治憲)の処置を支持するなど、鷹山(治憲)の改革に陰ながら協力をした。また、次男の治広が藩主になった際も、隠居した治憲に藩政後見を要望したという。
・華美を好んだために財政はさらに逼迫して破綻寸前になってしまった。
隠居後も膨大な隠居料を受けて華美な生活を続けた。鷹山(治憲)の倹約改革も大殿たる重定には届かず、倹約に励む藩内で重定だけは金を湯水のように、という状態であった。一方の鷹山(治憲)の生活費は従来の米沢藩主の7分の1で、重定の3分の1であったが、反発することなく重定には孝養を尽くしたという。天明7年に重定が重体になった際も鷹山(治憲)は実父の喪中にもかかわらずわざわざ江戸から米沢に下向して看病したという。
★上杉重定の運命式の特徴
<上杉重定の運命式>
18 10 19
11 27 16
20 17 24
上杉重定は、不幸な運命式を持っているといってもいいでしょう!
藩を受け継いだときに将軍家から一字をもらって改名したのですが、その結果の運命式がこれでは、天は米沢藩を見放した年か考えようがないのである。
そんなにひどい?
そうです。ひどいですね!まずはこの運命式は事情や環境圏から逃げられないということです。もちろんいい点もあります。それは感性がとてもいいということです。環境的な材料が調っているときには、上杉重定は名君になったかもしれません。