仕事の運勢も成就型で、しっかりと何かを残していくことになる。それに、好色であることは、豊臣秀吉の愛情運が物語っている。女性なしには暮らせないといった方がいい。それほど愛情には飢えていたといえる。
そんな秀吉のこの運命式にはどこか魅力が感じられない。木下・羽柴姓の時には強烈な個性があった。でもここでは国のトップにしては、できすぎている運命式といえるのだ。だから問題なのだ。
個人の魅力というものがかじられない。信長の描いたデザインを戦略として立案するというパワーはあってもそれ以上ではないということになる。
それに流運を見れば、豊臣秀吉の運命式はほとんど仕事運はトラブルと問題が起こることを暗示している。これは、本体の成就型の運勢と比べると、大きな差があることになるが、このことは問題は内部にいっぱい抱えながらも何とか形は作っていくということを意味しているから、この豊臣政権は、表面上の安泰さの反面多くの問題を内包したまま進んでいったということになるのである。
流運はそのことを物語っている。
実際に豊臣政権はそのような政権の推移をたどっている。
★本能寺の変・その後
信長が本能寺の変で倒れた後、ここで秀吉は、
歴史的な大事件をやってのけたということである。
それは、一族の長が亡くなった後は、その長子が
相続をするという儒教的な伝統秩序が不文律の
ようにして、歴史的に連綿として続いてきたと
いうことである。
これを・・・破壊・・・したということである。
もちろん秀吉に幸運と知略が備わっていたからなのではあるが、それにしてもやり方によっては誰でも天下を狙えるという可能性を人々に示したのは、時代が大きく変化しているということを知らしめたといえる。
本来、信長の血筋を持つ人々は数多くいた。しかし、それらの人々を上手く封じ込めて彼は誰もが納得する形で、実力で天下を盗ったのである。
それまでのいきさつは、ここで取り上げる必要もないくらいに皆様が知っているドラマが展開するのである。
ここでは、そんなドラマを取り上げるつもりはないのであるが、秀吉はどういう形で信長という権力を相続していったのかということである。 |