秀吉は、この信長の理想と戦略を忠実に自分のことのようにして実践していったのである。
何故秀吉は、信長の天下を盗ったのか?そして何故、伝統的な血筋による相続を拒否して「破壊」を行ったのか?それは、秀吉が使命を感じていたからに違いないのある。
信長亡き後、信長の理想を実現することのできるのは自分しかいないという召命観を持ったはずである。
信長の側で走狗のように仕えてきて、信長の目指すところを誰よりも理解していたのは自分であるという自負があったはずである。だからこそ、彼の信長亡き後の正統的権威を持つことのできる心的原因は、秀吉が信長の同士であったから、それ以上に心酔者であったからに他ならない。そこが、どの武将よりも強力な動機に支えられているということになる。単なる下克上ではないということになるのだ。
信長亡き後の秀吉の軌跡を見てみよう!
それは信長のデザインの焼き増しに過ぎないということが分かる。
@他の武士勢力には、武力による服従と市場経済による復興
織田家の同僚との家督争いに勝つこと。これには秀吉に幸運があった。織田家の相続者である織田信忠も本能寺の変で戦死してしまっているからである。だから、秀吉は三法師君を立てて清洲会議に臨んだ。こうして、ここから織田家の家督争いが始まるのである。このくだりは、誰もがよく知っているとおりである。その後、柴田勝家を滅ぼして、織田家の家督争いにに勝利すると、次は家康との天下争いに何とか勝つことになる。
ここまでは、序論である。秀吉が本当にしたかったことは、大阪城の建設である。これは偉大なる天下の平城である。
これまでになかった「城」の建設である。平城であるから防御のためには大阪の水運を利用し、堀を何重にも重ねて防御をし、ここに諸大名の屋敷を造り、女房を住まわせ、実質人質にし、軍務、政務、日本経済の流通の拠点にしたのである。これは楽市楽座の拡大スケールということになる。
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