このことは、人々の度肝を抜いたのである。それは、当時の常識からは全く考えられないことだからだ。こんな便利なところに城を築いては、すぐに敵にやらっれてしまい大変だ。ここには城を築いてはいけないというのが常識だったからだ。これを秀吉がすぐに実行をしたのは、既に信長の青写真があったからである。そのことを知っていたが、秀吉は自分の発想のようにすり替えて天下人であることを世に知らしめようとしたのである。
A海外侵略による領土拡大
C朝廷の権威の消失
朝鮮征伐という形で実行にうつされた。いろいろな人が反対する中で、何故この朝鮮征伐をやってのけたかということである。これも信長が考えていたことである。これは単なる侵略というよりは、日本古来の権威である天皇家対策でもあった。海外に領地をひろげることで、その象徴的な支配者に天皇家を当てて、天皇家を海外へ移し、実質的に権威を薄めてしまおうということである。そして代を経ることで無力化と天皇制の廃止をもくろんでもおかしくはないのである。
信長の場合とは変わって秀吉の場合は「成り上がり者」であるから、表看板になる権威の後ろ盾が必要になる。そのことが、秀吉の最大のネックになる。
その為に、秀吉は朝廷の後ろ盾を必要としたのであるが、最終的にはその朝廷という権威も有名無実化したかったに違いない。無理して豊臣という姓を創姓して関白になったものの、最終的にはその権威が邪魔になるということだ。
その戦略として、信長が描いた海外侵略を持ってきたのだ。だから、秀吉にとっては朝鮮征伐は不人気であっても、その戦略上どうしても必要なことであったといわざるを得ないのだ。
B宗教勢力には、信仰の自由の保障、但し服従しない勢力には弾圧
仏教という宗教勢力が歴史上時の政権を
相当悩ましてきたことは、平安遷都も奈良仏教と
の決別が大きな動機にある。その為に、最澄は唐へ
留学したし、平安京では仏教を国家護持の道具に
しようとした。しかし、最澄の理想は変質をして
天台宗比叡山はたびたび天皇家を、武家を脅かす
存在になってしまった。
浄土真宗の一向宗にしても、比叡山にしても、日蓮宗にしても、皆僧兵を養い傭兵を雇い、自己の権益のためにきゅきゅうとしてきた。そして他宗を攻撃しては自己の権益の拡大を謀るという内部抗争を繰り返してきた。