彼こそは戦国乱世、下克上の中にあって、教育こそ生存と人生の勝利、家系の存続を可能ならしめることを、私達に教えてくれた人物なのです。(山岡荘八著伊達政宗参照)
○1567年8月3日、米沢城内において、城主伊達輝宗の第一子として生まれます。母は山形の城主、最上義守の長女、義姫です。
○義姫、結婚の動機、「はい、嫁いで一子を挙げましたら、その子に輝宗の首級を添えて戻ってきます。」
○この結婚は、伊達の家臣、中野宗時が最上を通じて逆心の想いを持って結んだ縁組なのです。
○輝宗夫婦は、亀岡文殊堂に願をかけて、祈祷を頼みます。ここには羽黒山の行者、長海法印が住んでいます。(何とぞ、文武の才と忠孝の誉れある男児をお恵み下さいますように。)
○こうして義姫の夢枕に白髪の僧が立ち、宿を借りたいといいます。どうぞお泊まり下さいというと一本の幣束を渡し、これを大切に胎育するようにといって消えたのです。この幣束のことを修験道では梵天と呼びます。従って生まれた子は梵天丸と名づけられたのです。
そしてこの白髪の僧は、役の行者以来の神通力を得た生き仏、万海上人であった