★それでは、伊達梵天丸の運命式を見てまいりましょう
<伊達梵天丸の運命式>
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確かにこの運命式を見ていくと、一国の主にふさわしい名前かというと、どうもそうではないように思える。しかし後に元服して、伊達政宗になるとさすが伊達家中興の祖の名前にあやかっただけのことは出てくるのである。しかし、それもこの梵天丸の時の教育が大きく影響しているのであるから、「命名伝説」と彼にかけられた教育は大きく花を咲かすようになるのである。
元服する前までの梵天丸では、彼の家庭運が大きく影響することになる。確かに頭は切れる子であったに違いない。思慮深くもある。しかし何分にも生まれがよい性もあるが人がよすぎるし、周囲に影響されて流されやすい。戦国武将としては、これでは凡庸と考えてもいい運命式なのである。
しかし、ここが教育の恐ろしいところなのである。梵天丸に付けた師匠が素晴らしい。当代一流の人物である虎哉宗乙である。彼は美濃の国に生を受けた臨済宗妙心寺派の僧で、虎哉の師は武田家滅亡の折に焼き討ちの中で”心頭滅却すれば火もまた涼し”の有名な言葉を残した快川紹喜(かいせんじょうき)なのである。
虎哉は快川の門弟のなかで下野国雲岩寺の大忠禅師と共に、天下の二甘露問とうたわれた名僧として既に高名であった。その人物を招へいするにあたって、父輝宗は”資福寺”というお寺まで新しく建設して、虎哉を迎えたのである。
一目彼を見た虎哉の教育方針は「強情とへそ曲がり」なのであった。禅宗に基礎をおいたこの教育方針は、梵天丸を鍛え上げた。梵天丸がこういう教育方針に素直に従えたのは、彼の愛情運によるところが大きい。梵天丸は、性格はどちらかというとやさしく知的な面が強かったが、愛情運は男らしさを求めていたからである。
虎哉は無理矢理に梵天丸を教育したのではない。自分の頭でしっかりと考えさせたのである。そして自分の心が納得するのをしっかりと待っている。こういう方針は実に梵天丸の性格にも合っていたのだ。彼の性格は知的だが内面をしっかりと見つめるという世界をもっていたからなのである。
こういう基礎を積み上げた後に、15歳で元服して「伊達政宗」が誕生するのである。
それでは、梵天丸から政宗に変わって彼の運命式はどのように変化したのであろうか?