更にもう一つ戦国時代で忘れてはならないことがある。それは比叡山延暦寺などの寺社のパワーである。現代のような寺院や坊さんという発想を持ったらお間違いである。この時代の寺社勢力というのは、法衣をきた大大名ともいうべき存在であったということである。何しろこの世の権利と、あの世の権利という二重の権利を持っているのだから、おいそれと手を出すことができなくなってしまっている。ここが問題なのだ。それは民生までも圧迫するようになっているということだ。 広大な荘園を持ち、座や市を開催し、関所で法外な税金を取る。まことにやっかいな存在であったということがいえる。その権益を守るために僧兵を組織し、領主にとっても治外法権的な存在であったということなのである。
この寺社勢力をどうするかということが、戦国大名にとっては大きな課題であったのだ。何故ならば彼らこそ最も改革を嫌う守旧勢力の代表だからだ。しかもこの時代、寺社勢力は表向きの信仰を盾にとった単なる利益集団でしかなかったということである。
■信長の非常識はどこから来たのか?
<信長にとって、桶狭間の戦いは何だったのか?>
今川義元の5万の上洛軍をわずか2千の手勢で破ってしまった街道一の弓取り!などという簡単なものではない。
信長はこの時代においておくには惜しいような類い希なる経営者であったということである。それは、信長には理念があったということである。そしてそれに基づくビジョンがあり、戦略があったということだ。
理念:平安楽土
ビジョン:天下布武(武力による天下一統)
戦略:楽市楽座、兵農分離、鉄砲の戦術的な作戦、新しい文化による価値創造
今川義元軍を迎え撃つ織田信長軍の情報戦と目的を絞り込んだ奇襲攻撃など、従来の戦のやり方には全く見られない独創的なものがある。
信長の恐ろしいところは、この桶狭間の戦いの後なのである。
この戦いの後に具体的に「天下統一」への足がかりをつかんでいったのではないかと思われる。普通は、義元の首をはねたならば、弱体化した今川領に攻め込んでこれを織田領に奪い取っていくのが常套手段だ。ところが、信長のやったことは全く違った。