今川から離脱した松平元康と同盟を結び東の砦とし、矛先は美濃へ向かったのである。もちろん舅道三との約束もある。しかし、それ以上に戦略的に美濃が如何に重要であったかと言うことが分かるのである。それは、京への最短距離の戦略的な要衝であったということである。
桶狭間の戦いから6年の歳月をかけて美濃を攻略した信長は、ここを岐阜と改めたのだ。この命名には、大きな意味がある。というよりは、命名に理念があるということだ。それは、中国の周王朝が岐山という小さな村からおこって天下を統一したという故事にちなんでいるのだ。
そしてこの時から、信長は天下布武の印を使うようになったのである。これは明らかに、強い意志の表明ということになります。この時代に、明確にこれだけの意志を持った大名がどれほどいたのかということである。意志だけではなくビジョンを持っていたということは、驚愕に値する。
このように考えていくと、信長は桶狭間の戦い以後確実に天下統一を考えていたということがいえる。そうでなければ、領国経営を考えるならば、すぐにでも今川領内へ進軍を開始したに違いないからである。それがこの当時の常識なのである。その常識を打ち破り、グッと我慢し、家臣達にもそれを徹底させ、その野望を持ち続けたというのは凄まじ精神力という他はないのである。
■時代の神は何故今川に味方しなかったのか?
織田信長の強運をどうとらえるかということである。それは、単なる運勢ではないのだ。時代の神が味方をしたということである。では、反対に何故今川義元には時代の神が味方をしなかったのかということである。
そこのところをよく考えておかなければならない。
それには歴史の流れを知っておく必要がある。室町幕府の使命は何であったかということである。それは、鎌倉幕府が理想とした武家による政権の真の理想を実現するための中継ぎであったということである。だからこそ、応仁の乱というとんでもないことを時代の神はおこしたのである。こうして、新しい理想の国家を目指した改革が促されるようになり、既存の権威は失墜し、全ての人が自分の可能性を目指して歩くことのできる状況を、下克上で作って見せたのである。
|