だからこそ、新しい理想像をもった武将でなければ、時代の神は味方をしないということになるのである。今川義元は足利将軍家の血を引く名家であるが故に、結局は足利幕府を再興するくらいの知恵しかなかったのである。それだから時代の神は今川義元を見放したのである。同じことが武田信玄についてもいえる。彼が上洛途上で病死してしまったのは、彼が時にかなっていなかったということなのである。同じように「義の武将」上杉謙信にもあてはまる。卒中で倒れてしまうのであるが、彼も関東管領職を受け継いで上杉を名乗り、幕府秩序の回復を願ったのであるが、これも時代の神に見捨てられてしまったということなのである。
それでは、信長は何故時代の神が期待を寄せたのであろうか?
それは彼が、守護ではなく、その被官のまた被官という家柄であったということなのである。即ち、血筋と権威についてまわる朝廷との関係を完全に切ってしまうことができるからである。
同時に、彼は下克上という中で、中央ばかりを見て硬直化してしまった上級武士による経営を否定して、国民をしっかりと見つめる現実思考できる位置を持っていたということである。
もう一つは、信長自身の激しい愛憎の世界と、アイデアマンであることと、組織力の天才であるという個人の資質が改革に向いているからであった。
■織田信長が天下統一の野望を抱くようになった動機はどこに?
何事にも、動機というのがある。事業を興して社会に貢献しようと考える人には、それだけの動機があるから目的が生まれるのである。だから、「何故そういうことをするようになったのか?」ということは、その動機を見なければならないことになる。
そこで、織田信長という人が「天下布武」の目的を掲げるに至るまで、どんな体験をしてきたかということなのである。
そこで、織田信長の幼少期を探ってみようと思う。
信長の名前の変遷をたどってみることにすると、
「織田吉法師(13歳まで)、織田三郎信長(18歳まで)、 織田上総介信長(33歳まで)、織田尾張守信長(35歳まで)、 織田弾正忠(42歳)」