<織田吉法師の運命式>
41 23 37
36 57 19
42 24 29
<織田吉法師の流運>
12 8
13 9
元服するまでの13年間の吉法師時代の運命式からは、どんな様子がうかがえるのだろうか?
織田吉法師の運命式を見てみると、環境によって大きく影響を受ける運命式であることがわかる。周りの人間環境や政治状況、経済状況の影響が大きいということがいえる。
そこで、この吉法師時代の彼を取り巻く環境がどんなものであったかを記録から見てみようと思う。
吉法師に関係するところを(信長公記)より抜粋
織田信長の部将(後に豊臣秀吉の部将)である大田牛一が、
江戸時代初期の慶長十五年(西暦1610年)頃に著しました。
■吉法師のおかれた環境
太田牛一がこの文章を著しました。(信長公記)
尾張国は上四郡と下四郡に分かれていた事
そもそも尾張国は八郡です。
上の郡は四郡、織田伊勢守がその地方の侍を味方に付けて、その地方を支配し、岩倉に居城していた。
残りの半国、下の郡も四郡あり、織田大和守が支配していた。上郡と下郡とは川で隔てられており、下郡の織田大和守は清洲城に武衛様をお置きになって、織田大和守が武衛様を保護していた。
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