大和守の配下に三人の奉行がいた。織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠の三人である。織田弾正忠と言う方は尾張国勝幡というところに居城していた。
そこには西厳、月厳、備後守の弟である与二郎殿、孫三郎殿、四郎次郎殿、右衛門尉という人が居た。代々武士の家柄で、備後守殿は特別すぐれた人で、他の織田大和守の家来で能力のある人たちと親交を結び、味方にしていた。
ある時、備後守が尾張国の中にある那古野へ来られて、ここを頑丈な要害にするように命じられ、嫡男・織田吉法師殿に、一番家老、林新五郎、二番家老、平手政秀、三番家老に青山与三右衛門、四番家老に内藤勝助、これらの方々を信長に添えられて、勝手方会計の事は平手政秀に担当させた。
■父親(織田信秀)の奮戦
・あずき坂合戦で、今川の軍勢と戦い、あんじょう城を守っていた織田信秀は奮戦したが結局あんじょう城は今川が進駐することになった。
・5千人の討ち死にー美濃の国を攻めた時に、斎藤道三に逆にせめられて名だたる武将が5千人ほど討ち死にしてしまった。
勢いをかって道三は大柿城を攻めてきた。
・そこで、備後の守(織田信秀)は美濃の後方を攪乱して、道三の大柿攻めをやめさせた。
・織田領内では清洲衆が敵対行動をとって、備後の守の古渡城に攻めてきた。これは何とか和解工作をして、和解に至った。
ここで、織田信秀公の運命式を見てみよう!
<織田信秀(備後の守)の運命式>
30 23 32
25 39 14
34 16 21
ここで織田信秀公の運命式を見ると、この方も唯我独尊型で、専制君主型などという運命式ではない。それ以上に、人の情に通じ、人との関係をしっかりと築き、そしてなかなかアイデア型でもある。特徴は知恵とアイデアで人気運の持つ指導力を活かすタイプの指導者であった。
信長はこういう父親の特徴をしっかりともらいながら、とてつもない大きな星を背負って生まれたということがいえる。 |