◆吉法師の不便は少なくなかったが、天王坊という寺へ登られて勉学に励まれた。織田弾正忠殿は那古野の城を吉法師殿に譲って、自分は古渡に新城を造って移った。勝手方会計は山田与右衛門である。◆
この記録を見る限り、元服までの吉法師は、期待される世継ぎとしてしっかりと教育を受けていたことになる。運命式からは、吉法師の性格は信長時代の評判である「大うつけ」とはことなり、頑固でしっかりとした考えや価値観をもっていて、ものごとは成功した形が見えなければ気がすまないということになる。それに、人間関係も自分の相談相手になる人、または目的によって自分と相対的な関係を作れる人との関係を築く特徴がある。
織田家のおかれた環境は、まさに内憂外患で、隣国との戦、それから織田家内部での闘争など、誰を信じて良いのかもわからなくなる複雑な状況におかれていたことがわかる。
ただこの時期、最も愛情を必要とする年齢でもあるのだが、その愛情についていえば、細やかな気配りを望んでいるのに、そういう環境がどこまであったかということを考えると、愛情問題では、周囲にそういう愛情を注いでくれる人がどのくらいいたかが問題になる。それに、この時期吉法師の家庭内性格は、やっぱり人とのつながりを求めてやまない性格でもあったから、もし疎遠な愛情関係しかなかったとしたら、その後の信長時代のの運命式にも影響を与えるようになることは間違いない。また吉法師時代の流運を見ると、なかなかわがままな自己中心的な世界をもっていることもわかる。それに愛情運も敏感な世界をもっている。
そのように見ていくと、吉法師時代というのは、多様な性格を内包しながら、過ごしていったことになる。それが吉法師の行動を理解できないものに人には見えるようになる。しかし、彼にとっては全て理由があった。その理由を誰も理解しなかっただけである。
■吉法師の元服
◆吉法師殿が元服された事
吉法師殿が13歳の時、林佐渡守、平手中務、青山与右衛門、内藤勝介が介添えして古渡城にて元服した。織田三郎信長と名乗られ、元服披露の為の酒宴が盛大に行われた。
翌年、織田信長は平手中務丞を後見人として初陣を行った。信長は「紅筋の頭巾」「馬鎧」という出で立ちで、駿河の今川氏の軍勢が駐留している三河国の吉良大浜へ手勢を出して、あちこちに放火して、那古野へ御帰陣なされた。◆