市川大介を呼び寄せて弓の稽古、
橋本一巴を師匠として鉄炮の稽古、
平田三位を側に呼び寄せて兵法の稽古。
また鷹狩りをなさった。
ここに、見苦しいことを信長公がされた。町を通行中、人目をはばからず、栗や柿は言うまでもなく、瓜までも(*21)かぶりつき、町中で餅を立ち食いし、人に寄りかかったり、人の肩にぶら下がるような歩き方しかなされなかった。その頃の世間は地味だがしっかりした風潮であったので、信長公を「大うつけ」と言わない人は無かった。◆
信長の運命式を見ていくと、これは非常に戦略的であることがわかる。最終的な状態を確保するにあたって、今何をすればいいのかということを瞬時に判断できるということだ。
この運命式は面白い特徴を持っている。戦略的な思考ができると思えば、人を組織することのできる運勢をしっかりと持っているといえます。人を組織するというのは、人間的なつながりを作れるということです。そういう魅力を持っているといえます。
それも愛情運から来るところが大きいのですが、もう一つ信長になってからは、自分を必要としてくれる人か、自分を好いてくれる人かということを瞬間的に判断してしまうという特徴があるのです。
戦略が練れても、それをどういうふうに実践していくかというところに問題がありますが、そこは、信長の運命式は非常にアイデア型で工夫型といえます。だから、人に真意を悟られないようにカモフラージュするような工夫もすぐにアイデアが出てきます。
信長が、町人や百姓など共自由に交流したのも、本当に自分の味方になるのが誰かということを知っていたからだと思う。信頼できる新しい自分の勢力圏を作ろうとしたといえる。それを内部からもわからないようにし、同時に外部の敵をも欺くという効果を狙ってのことが、あの茶筅曲げと奇抜な服装になって現れたといえそうです。
■信長の秘密は、アイデアと工夫にあった
信長公記によると
◆信長は十七、八歳頃までは、これといった遊び事はありませんでした。
馬を朝夕に稽古、又、3月から9月までは川で水泳をされていたが、水泳は上手であった。
その時、竹槍による叩き合いをご覧になり「とかく槍が短くては具合が悪い」と仰られて、三間柄か三間半柄の槍に変更された。