◆山城道三と信長の会見
4月下旬、斉藤山城道三は、「富田の正徳寺まで出向きたい
ので、織田上総介殿もここまでおいで下さいましたら、非常に嬉しい次第です。対面いたしたい」旨の申し入れをしてきた。
道三が申し入れた理由は、信長公に悪意を抱くものが居て、「婿殿は大たわけでございます」と、道三の前で口々に言ったからである。しかし道三は、人々がそのように言っても、「婿殿は、たわけでは無い」とかねがね言っていたが、あまりに人々が悪口を言うので、対面して信長を見極めようとしたのであった。
信長公は、問題なくこの申し出を受け入れられ、木曽川・長良川の大河を舟で渡っておいでになった。富田という所は、家が700軒もある富裕な所である。大坂の石山本願寺から代官である坊主を招いて、美濃・尾張の両国から税金の免除状をもらっていた。
斎藤山城道三の考えでは、信長公は不真面目な人であるとの評判の人であるので、嘲笑してやろうと考え、富田の古老を700から800人集め、威厳を正した肩衣・袴を着用し、正装にて会見場である正徳寺の縁に並ばせて、その前を上総介殿が通られるように準備をすすめた。
そうして山城道三は町はずれの小屋に忍んで、信長公のおいでの様子を観察をなされた。その時の信長公の身なりは、髪は茶筅髷、黄緑色の平打ち紐で髻を巻き、湯帷の袖を外して、のし付きの太刀。
脇差しを、二つとも長い柄にわら縄を巻き、太い麻縄を腕輪にして、腰には火打ち袋、瓢箪を7、8付けられ、虎皮と豹皮を四色に染めた半袴を着用していた。お供の家臣は7から800人が並び、足の早い足軽を先に走らせ、三間半の長槍が500本、弓と鉄砲で500挺あった。寄宿の寺へ到着すると、回りに屏風を立てて中を見えなくし、
一、髪を折り曲げ、生まれて初めて正装の髷を結われた
一、いつ用意しておいたのか分からないが、正装である長袴を着用
一、正装時に着用する小刀、これも人知れず用意していたものを、腰にさした