この出で立ちを、斎藤家の家中の者が見て、さてはこの頃のたわけのふりは、わざと作られたものであるのかと驚き、次第に事情が分かってきた。
信長公は御堂へするすると出座なされ、縁側へ上ったところで、春日丹後と堀田道空が信長の所へ差し向かわされ、「早くおいで下さい」と申されましたが、信長は素知らぬ顔で、諸侍が並び座っている前をするするとお通りになって、縁側の柱にもたれかかって座った。
暫くして道三が屏風を押し開けてお出ましになった。信長公はこれも素知らぬ顔をしていたので、堀田道空はたまらず、「こちらが山城殿です」と申されると、信長は「そうか」と仰られて敷居から中へ入られて、道三にお礼を言われて、そのまま座敷にお座りになった。
道空が湯漬けを差し上げる。互いに杯を交わし、道三との対面の儀は問題なく完了した。道三は附子を噛んだときのような表情で、「またいずれお会いしましょう」と申されて、席を立たれた。
道三は信長を20町ばかりお送りになられた。その時美濃衆の槍は短く、信長の槍は長く立てられているのを見て、道三は面白くないご様子で、何も申されないでお帰りになられた。
道三は居城に帰る途中、あかなべと言う所で猪子兵介が道三に、「どう見ても、上総介はたわけでございます」と申された。すると道三は「まことに無念であるが、山城の子供は、たわけ(信長)の門外に馬を繋ぐことになることは、間違いないことであろう」と申された。この時より以降に、道三の前にて(信長公を)たわけと言う者はいなくなった。
★この斎藤道三(利政)の会見を見ると、この戦は斎藤道三(利政)の負けであったということがいえる。この勝負は、織田信長の戦略とアイデアの勝利である。
何よりも武器に対する工夫が凄い。こういう事をちゃんとできるということは、普通の人間ではないということなのである。
それに、高価な鉄砲を500丁も揃えていたということは、相当なものだといわざるを得ない。
ここは、筆者の推測であるが、
この斎藤道三(まむし)との出会いで、信長は国を盗るということを学び、それが天下を取るということに、信長の中で昇華していったのではないかと思う。
まむしが一国をとったのなら、
自分は天下を取ってやるというくらいは、
彼の運命式が思わせたに違いない。ひょっとすると、
まむしの道三が背後にいて信長を応援しているの
とも考えられる。まむしの道三もいっかいの油売り
から身を起こし、美濃一国の主にまでなった男である。
信長がまむしから学ぶことも数多くあったのではないかと思う。
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