女性の場合特にその傾向が強く、名前はひた隠しにされた。
多くはニックネームのような呼ばれ方をした。
例えば、源氏物語で有名な「紫式部」は、紫の物語を書いた式部教の娘という意味である。清少納言は清原氏の出で、少納言の職にあったために呼ばれた。
更級日記は、菅原孝標女という具合である。
いずれにしても、命名された名前というのは、その人そのものを表すことになり、名前自体が全体像を示すのであるから、この名前を疎かにするというのは、自分自身を疎かにするということにつながりかねないのである。
それで昔の人は、いろいろと知恵を使った。実名が使えないので仮名を使ったのである。
それが字名であったり、雅号であったり、通称であったりしたのである。
そういうところで自分の「運勢」を創っていったように思うのである。
通字という名前の付け方がある。
別にこれにこだわらなくてもいいのだが、家という制度が明確であった頃は、
誰のどこのこということが、名前を聞けばわかるのである。
例えば、平氏は平清盛、平重盛、平維盛などというように代々”盛”がついた。
源氏では源義家、源義親、源為義などと続く。
織田信長の織田家は”信”の字、ちなみに我が遠山家の明智遠山氏族の直系は代々”影”の字がつく。
こうして、家が分家をすれば「通字」も新しく変えてその家の通字を創るようになる。
こうして「家」という有機体が維持されていくようになるのである。
封建的というかも知れないが、そういう言葉で一笑に付すには問題がある。
それは現代社会では「家」という有機体が崩壊してしまうことにより、様々な深刻な問題が出てきたからである。
もちろん「家制度」が様々な社会的な可能性を封じ込めてきた過去も見逃せないのであるが、「家」という有機体のあり方まで否定してしまう「個人主義」はもっと問題がある。
通字が発展すると、「襲名」という形が出てくる。
これは、「芸を相続する」という意味もあるのだが、それ以上に成功した”親