の運勢”を引き継ぐという意味が大きい。
こうすれば、新たに運勢を開拓する努力に比べて、先人の業績を相続しながら、
その歴史の上に自分の人生を追加することができるからである。
既に道はできているのである。
歌舞伎の世界では何といっても”市川団十郎”であろう。
この初代団十郎は成功を収めたが、波乱に満ちた生涯であった。
それ故、「団十郎」を襲名するということは、その人生に”波乱”という要素はつきものなのだ。その位、「名前の襲名」というのは影響があるのである。
いずれにしても、「家」という有機体は、これを発展させれば単なる個人主義よりももっと味が出てくるのは間違いない。
●宮本武蔵・・・実子ではないが、実兄田原久光の子の「伊織」を養子として迎え小倉藩に仕官させた。その後、小倉藩の家老になり代々家老職を受け継いだ。
●鬼平こと、長谷川平蔵・・・実在の人物で400石取りのれっきとした旗本である。
幕府での実際の役職も、「火付盗賊改方」で寛政の改革の折には石川島に人足寄場を設置することを老中松平定信に進言している。
なかなか骨のある人物であったようだ。だから定信はどうも嫌っていたらしい。
●大岡越前守忠相・・・伊勢の山田奉行のときに当時紀伊藩主だった徳川吉宗の目にとまり、吉宗が8代将軍につくと江戸町奉行に抜擢され、名奉行として名をはせた。
その後三河西大平藩1万石の大名に出世をした。
明治には子爵になり現在に至る。
●遠山左衛門尉金四郎影元・・・名奉行遠山の金さんだが、実在の人物である。
江戸時代後期美濃の国明智荘に6千5百石の大旗本がいた。
元々の本家は美濃苗木藩(現岐阜県中津川市)1万5千石の大名である。
その分家で長崎奉行や勘定奉行を歴任した遠山影晋(かげくに)という人がいた。
金四郎はその息子である。遠山影晋(かげくに)は遠山家の養子であった。
ところが養父に実子影善ができた。そこで、跡目争いを避けるために金四郎は