結婚しても旧姓を名乗りたいとする意見も少しづつ増えてはいるようではあるが?しかし、日本人の伝統にはなじまない気がする。それでもあえていうならば、その辺は運勢的には自由にしてもらいたい気持ちはある。なぜならば、結婚しても変わらない愛情交流を築くためには、選択の自由があった方が離婚の悲劇をもっと防ぐことができるかも知れないからだ。
名前を自分のアイテムとして使っていた時代に比べると、実はとても不自由になったのだ。だから、名前に関していえば、まったく民主主義になって自由自由と叫んでも、実は自由が後退してしまっていたというのは驚きなのだ。それで、少しでも自分の生き方に自由を取り戻すことをしようではないかと思う。だから、あえて改名(ペンネーム)を勧めるのだ。個人の識別と徴税だけのためなら住民登録番号だけでいいのだ。自分で自分を自由に創る。それこそ創造的ではないか!江戸時代までは、サムライと農、工、商の実質的な二大階級制度であったが、それでも庶民はその中で自分を自由に創造する技術を身につけていた。現代社会にはそういう自由がないともいえる。自分を自分で創造するというよりは、定められた社会システムの中に自分を当てはめる自由しかない。
学校の勉強でいえば、復習ばかりやっているのと同じだ。これでは勉強が面白くないのは当然だ。予習は攻めの学習だ。予習をすることによって、自分が自由に勉強をコントロールできる。先生が主体ではなく、勉強の主人は自分になるからだ。
そういう意味から考えると、社会の中で自分を自由にすることこそ、主体的な生き方ではないかと思う。改名(ペンネーム)は、失われた人間の創造の自由を回復する大きな希望なのだ。
(1)孔子「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。」
とあるように、人生の節目節目に、自分を新たに再出発する意味での改名は、自分自身の精神にも、または周囲に改名を知らせることによって、新たなる覚悟を伝えることができる。
(2)改名によって、周囲または自分に対する呼び方や、手紙、メールのやりとりで漢字が以前の名前と違うことによって、以前のような人間ではないという意識を持たせることができる。周囲の意識の変化は、自分造りへの大きな一歩となる。