淀屋の事業は米市を主とした多角的経営であった。
初代の岡本三郎右衛門(おかもとさぶろうえもん)は、伏見城の造営や淀川の堤防改修において工事の采配を振り、高い土木工事技術を発揮した。その後、大坂の十三人町(後の大川町、現在の大阪市中央区北浜四丁目)に移り、淀屋と称し材木商を営んだ。1609年から1614年に掛けて中之島の開拓を行い、江戸時代から現代まで続く経済の拠点を造った。
二代目の淀屋言當(よどやげんとう)は、途絶えていた青物市を元和元年(1616年)に京橋一丁目の淀屋屋敷で再開した。寛永元年(1624年)には「海部堀川」(かいふほりがわ)を開削し、海部堀川の屈折点に造った船着場「永代浜」(現在の靱本町二丁目)に魚の干物を扱う雑喉場(ざこば)市を設立した。
また米価の安定のため米市を設立し、大坂三大市場と呼ばれた青物市、雑喉場市、米市を一手に握った。
また輸入生糸を扱うための糸割符に、大坂商人も加入できるように長崎奉行と掛け合った。
寛永9年(1632年)に、糸割符の加入が認められ海外貿易を始める。 寛永15年(1638年)からは加賀藩主前田利常の意向により加賀米の取扱いが本格化した。その大坂への輸送に際して、日本海から関門海峡と瀬戸内海を経由して大坂に至る西廻り航路を北風家の北風彦太郎と共に担い、北前船の先鞭と成った。
●淀屋常安(よどやじょうあん、つねやす)1560年
- 1622年
山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。
なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った。