転機は「悪魔くん」(水木しげる原作)を映像化した時だった。東映初の特撮テレビドラマとなった「悪魔くん」は、子供の人気を獲得。途端に、テレビ局が平山の企画に注目し始める。
71年には石森章太郎(当時)原作の「仮面ライダー」をプロデュースする。労働争議の関係で既存の撮影所が使えず、主役の藤岡弘が撮影中に骨折するなど、滑り出しは順調ではなかった。
「でも、とにかくこの作品を当てないと、の一念だった」と振り返る。優秀な腕を持ちながら、平山同様、京都を追われた「仲間」が大勢いる。作品を当てて、仕事を増やし、また仲間と一緒に映像の仕事をしたいと思った。
幸い、仮面ライダーは視聴率30%超を記録。日本に変身ブームを巻き起こした。
仕事の依頼が殺到し、週に10本近い作品を掛け持ちしたこともある。「人造人間キカイダー」「秘密戦隊ゴレンジャー」「がんばれ!!ロボコン」など、数え切れないほどの特撮番組を作り出した。
89年、5年間の嘱託を経て、東映を退職。その後も変わらずに企画書を書いたが、フリーとなってからの企画はなかなか通らない。バブルが崩壊し、映像業界に余裕もなくなっていた。
■長期のリハビリ
ある夏の明け方、自室で企画書を書いていた平山は、突然倒れる。脳内出血だった。記憶は1週間戻らず、死線をさまよい、40日間の入院と長期のリハビリを余儀なくされた。それでも企画書のことしか頭になく、退院の翌日、映像会社を訪問した。
そのがむしゃらさの根底にある気持ちは、「仮面ライダー」を作った時と同じだ。時が流れ、かつて共に番組を作った仲間が、定年などで映像作りの第一線を退くことを余儀なくされた。「志もやる気も、作品を作る腕もあるのに『場』がない彼らと、また一緒に仕事をしたいんだ」
2006年には、特撮ヒーロー番組のアクションを担当する事務所、レッド・エンタテインメント・デリヴァーの取締役に就任。アクションとも連携した企画を考案中だ。
「何回企画がボツになっても腐らない。紙と鉛筆さえあれば、新しい企画を作れるんだから」と笑う平山の夢は、100歳まで仕事を続けること。子供たちに夢と希望を与えるような作品を、再び作りたいと考えている。
(敬称略)
鈴木美潮
(2007年12月25日 読売新聞)
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