★★現代の乱世に生きる人★★
■元左翼、いま保守の学者先生
西部 邁(にしべ・すすむ)さん 「しゃべれるか」壇上で賭け
評論家
1939年、北海道生まれ。東大大学院経済学研究科修士課程修了。横浜国大助教授、東大助教授を経て同教授となるも、49歳で辞任。1994〜2005年、月刊オピニオン誌「発言者」刊行。05年創刊の隔月刊誌「表現者」の顧問を務める。近著は「妻と僕」。
◎佐々木紀明撮影 学生時代は60年安保闘争の先頭に立ち、その後は保守思想を掲げて言論界をリード。1988年に人事問題のこじれで東大教授を辞め、今年は妻・満智子さんのがんを著書で明らかにした。しばしば世を驚かせてきたが、「僕の人生は30歳過ぎまで浮いたり沈んだりの人生だったけれども、その後はたんたんとしたものだよ」と振り返る。
◆ 幼児期ー自宅に火をつける
最初の落ち込みは5歳のころ。札幌近郊に育つが、「冬になると木枯らしが吹いて気持ちが荒涼とする。にぎやかになると思って、自分の家に火を付けたんだ」。幸い、祖母が障子の火を消して事なきを得たが、これがケンカと非行に彩られた吃音(きつおん)少年の“デビュー”だった。
◆ 中学高校ー勉強もケンカ腰
小学校ではケンカばかりしていた。俊足で運動会の徒競走はいつも1番。「英雄時代だった」が、4年生の時に足をねんざし、哀れヒーローは表舞台を去った。中学校に入ると非行に走り、万引き少年に。1年後には「不安になって」やめたが、ケンカっ早さは変わらなかった。勉強もケンカ腰だった。高1の1年間で3年分の勉強を終えていた。
高2の夏、人生最大の落ち込みを経験する。妹を乗せた自転車を運転中に荷車と衝突。妹は内臓破裂の重傷で生死をさまよった。以来、「吃音が悪化し、全く口をきかず、何も読まない無気力症になった。それが高校卒業まで続いた」という。
◆ 大学時代は左翼の活動家
1浪して東大に入り、学生運動を始めるが、理由がまた尋常でなかった。「犯罪者になってみたかったんだ」。左翼の何たるかも知らないままブント(共産主義者同盟)に加わり、1年ほどガリ版刷りに精を出した。