◆島津義久:
島津家の出自は古く、遠き鎌倉時代にまで遡る。代々この地方の守護であって、薩摩、大隈、日向の三ヶ国の守護を任じられていた。
この三州を実質的に支配下に治めたのは、島津義久の父の時代であった。
やっとの三州統一を果たした頃、都を中心とした動きは信長による天下統一の動きであり、信長亡き後は秀吉がその実権を握って天下の覇者になろうとしていたのである。その秀吉が九州征伐にやってきた。
最初は島津軍が頑張ったが何しろ兵力に差がありすぎる。島津軍は撤退を余儀なくされることになる。義久を中心に島津三兄弟はこんなふうに評価されていた。
「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり」
実際に義久はこの秀吉の九州平定に徹底抗戦を主張する弟たちを抑えて、降伏を申し出たのである。これによって、島津氏はかろうじてその名を残すことができたのである。島津氏の強さというのは、この三兄弟の力を合わせると戦国一といってもいいほどの力量を持っていた。
秀吉はこの西国一の実力者を何とかその力を弱めたいと思っていたから、何かと口実をつけては、兄弟の力をそごうとしてきた。だから、朝鮮の役では小さな反乱に歳久の家臣が混じっていたことを種にして歳久の首を打たせ、四男の家久は秀吉の弟秀長との会食中に急死している。多分毒殺ではなかったかと思う。
島津義久の力が本当に発揮されたのは、秀吉亡き後の関ヶ原の戦い後のことである。関ヶ原の戦いでは西軍に与し、義弘が参陣していた。ここで、西軍が負けて島津軍はあの有名な家康本陣めがけた的中突破を成し遂げたのである。
戦後処理の外交交渉が凄まじかった。義久は徹底抗戦の構えを見せながら、外交力を駆使して、家康側近に取り入って、陳謝を繰り返し危機を乗り切ったのである。これは義久でなくてはできないことであった。
ここに大将の器とは何かということが問われてくる。そういう意味では、外交政治力につやよかった島津義久は大将としての器を持っていたといえる。