でも、六十数年間、ピアノを弾くことに関わってきたので、家に帰ったらピアノに触るのが当たり前。息をするのと同様、私にとって一番大事なことでした。家でリハビリのつもりでピアノを毎日1時間練習しましたが、いくらやっても何の進歩もありません。自分の意思とは違う、勝手な所に手が行ってしまうのです。1年半練習を続けましたが変化はなく、「これはダメだ」と思いました。
そんな時、バイオリニストである息子が留学先のシカゴから帰国し、左手で弾く楽譜を持ってきてくれました。「弾いてみたら?」とは言わず、ただピアノの上に置いてくれて…。
そこで、一人になった時、譜面を開いて弾いてみました。その瞬間、ひらめいたようにわかったのです。「あっ、これはちゃんと人に伝えることが出来る音楽だ。1本の手で弾こうと、2本の手で弾こうと変わりはない」と。
「これで演奏会に復帰できる」と、作曲家の方々に左手のための曲を作ってくれるよう頼み、倒れてから2年半後、リサイタルで復帰しました。
またピアニストとしてやっていくと決めた時、周囲に賛成してくれる人はいませんでした。でも、そんなことはどうでも良かった。病気で演奏が出来なくなっても、「好き」という気持ちはとても強かったので、周りが何と言おうと続けていくのが当たり前だと。反対されようが、大事なものはある。ハンデは、もしかすると周囲が作っている「常識の壁」ではないでしょうか。
「左手の音楽」をもっと多くの人に広め、聞いてもらいたい。そして、再来年あたり、左手のためのピアノコンクールを開催したいと考えています。(談)
(2009年6月12日 読売新聞)
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■ピアニストとして大成し、運勢のいいとき・・・
「国際的なピアニストとして活躍していた2002年、フィンランドでの演奏中に脳出血で倒れ、半身不随に。右手にはマヒが残った。」
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