●江戸時代まで改名は常識だった!
改名で有名な歴史的な人物といえば、徳川家康やら豊臣秀吉などがいる。
彼らは名前を変えることで出世の道を歩んだのだ。
そう思うと、何とか彼らにあやかりたいと思う人も出てくると思う。
ところが、改名というのは江戸時代までは普通に行われたのである。
ただやたらに改名をしたというわけではない。
男性にも女性にも元服式というのがあった。
もちろん、家康や秀吉のように完全なる改姓というケースではなくて自分の名前を正式な名前に変えるのである。
いわゆる大人の仲間入りをするのであるから、そういう儀式は重要な意味を持ったのである。
(今でいう成人式に匹敵するかな?いや、成人式の方がはるかに軽い内容みたいだ)
幼名から出発して、元服しての名前と改名するのだ。
この時の改名は烏帽子親という庇護者から一字名を拝領して改名するのである。
烏帽子親は生涯にわたって親に代わり、その子の行く末に責任を伴うという関係が生ずるのである。
だから元服して、一字名をいただいて改名をした子供は、大人社会でその烏帽子親の手前精進せざるを得ないのである。
現代の成人式は、ただ単に成人を祝うという意味でしかないために、あまりにも大人社会の仲間入りという自覚がなさすぎる。
具体的に自分を監督、自分を指導してくれる人がいるということの方がどんなにか精神的は安定するかということなのである。
荒れる成人式は、現代の若者の行き場のない”愛されていない姿”そのままが現れている。
だから、幼名はともかく元服時の名前は大変に重いものがあったことは確かである。
こういう武士社会の習慣が広く庶民にまで行き渡るようになり、この烏帽子親に相当する”名付け親”を親分と称し、元服した子供との間に生涯親分子分の関係が生ずるのである。
これは、自分よりも社会的に地位のある者の庇護を受けることによって少しでも優位に立とうとする自然の行為であったように思う。
こういう人間関係の深さが、その人の人格形成にも大きな影響を与えることになる。社会基盤が安定するということの中にはこういうすぐれた制度があって、個人を陰に陽に援助してきたのである。
現代社会は”自由”であるが、そのことはすべての責任が個人に降りかかることを意味しているから、それだけ厳しい社会ということもできる。
そのことを自覚した教育があまりにもなおざりにされていることの方が、問題といわざるを得ない。
長く人生を生きて、業績を上げてくると”号”という名前を称するようになった。
いわゆるペンネームである。
これはこれで実に重要な要素を持っていて、この”号名”で社会に通っている人も多いのである。
いわゆる知識人は、時代の節目に字や号名を用いることによって、自分の覚悟を新たにし、社会にその名をもって貢献しようとしたのである。
だから、”号”(ペンネーム)は、その人の社会的な大きな運勢を形成する重要な役目を持っていたのである。
例えば、蘭学者の佐久間象山は子明、新井白石は在中、荻生徂徠は茂卿、藤田東湖は彪、虎之助、誠之進などのように字や本名があったのに、号ですべてが通ってしまう人がかなりいた。
そこには漢字文化としての大きな意味が隠されている。
だから名前を変えるということは、自分を大きく転換したり、決意を新たにしたり、覚悟を決めたりと、その人の人生を決定する大きな分水嶺になったのである。
そういう意味から名前の改名は、素晴らしいアイテムとして活用されてきたのである。
名字や名前が固定化されてしまった背景には、江戸幕藩体制が崩壊し、明治新政府になって富国強兵政策のもと、徴税や徴兵制度を迅速に進めるために、便利なように戸籍を整理する必要があったからだ。
それで結果的に庶民に名字や名前を正式に名のる権利が与えられたのである。
1870年(明治3年)の太政官布告である。
そして、勝手に名前を変えることは法律で禁止されてしまったのである。
面白いことにこの辺の混乱期には、嫁いでいった女性は、夫の姓を名のることが許されず、しばらくは自分の生家の姓を名乗っていた時期があるのである。
何か現代とは反対のような気がしないでもないのであるが?
結婚して夫の姓を名乗ってはいけないなどと法律で決めようものなら、世論は喧々囂々の総反発をしそうな気がする。
結婚しても旧姓を名乗りたいとする意見も少しづつ増えてはいるようではあるが?しかし、日本人の伝統にはなじまない気がする。
それでもあえていうならば、その辺は運勢的には自由にしてもらいたい気持ちはある。
なぜならば、結婚しても変わらない愛情交流を築くためには、選択の自由があった方が離婚の悲劇をもっと防ぐことができるかも知れないからだ。
●改名(ペンネーム)して得すること!
名前を自分のアイテムとして使っていた時代に比べると、実はとても不自由になったのだ。
だから、名前に関していえば、まったく民主主義になって自由自由と叫んでも、実は自由が後退してしまっていたというのは驚きなのだ。
それで、少しでも自分の生き方に自由を取り戻すことをしようではないかと思う。
だから、あえて改名(ペンネーム)を勧めるのだ。
個人の識別と徴税だけのためなら住民登録番号だけでいいのだ。
自分で自分を自由に創る。
それこそ創造的ではないか!江戸時代までは、サムライと農、工、商の実質的な二大階級制度であったが、それでも庶民はその中で自分を自由に創造する技術を身につけていた。
現代社会にはそういう自由がないともいえる。
自分を自分で創造するというよりは、定められた社会システムの中に自分を当てはめる自由しかない。
学校の勉強でいえば、復習ばかりやっているのと同じだ。
これでは勉強が面白くないのは当然だ。
予習は攻めの学習だ。
予習をすることによって、自分が自由に勉強をコントロールできる。
先生が主体ではなく、勉強の主人は自分になるからだ。
そういう意味から考えると、社会の中で自分を自由にすることこそ、主体的な生き方ではないかと思う。改名(ペンネーム)は、失われた人間の創造の自由を回復する大きな希望なのだ。
(1)孔子「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。」
とあるように、人生の節目節目に、自分を新たに再出発する意味での改名は、自分自身の精神にも、または周囲に改名を知らせることによって、新たなる覚悟を伝えることができる。
(2)改名によって、周囲または自分に対する呼び方や、手紙、メールのやりとりで漢字が以前の名前と違うことによって、以前のような人間ではないという意識を持たせることができる。周囲の意識の変化は、自分造りへの大きな一歩となる。
(3)孔子「性相近きなり、習い相遠きなり。」
人間は先天的なものの差はたいしたことないが、その後の教育如何においてはその差が生じるということを意味している。
自分の中に持っている設計図をどうやって、芽を出し花を咲かせるかということは、自分自身に肥料や水をくれてやらねば、芽の出ようがないのは当然である。
だから、改名は自分の可能性を引き出してくれる肥料や水の役目を果たしてくれるのである。
少しでも可能性が出てくると周囲の人はそれをちゃんと引き立ててくれるようになるのだ。
そういうことが人の教育につながる。
自分自身だけで人は育つものではないから、育ててもらえる自分になるかということが大切なのである。そういう可能性を改名は引き出してくれる。
(4)孔子「過ちては則(すなわ)ち改むるに憚(はばか)る事なかれ過ちて改めざるをこれ過ちという」
間違いは誰にでもある。
その間違いを隠したり、ごまかそうとすればするほど人間は”どつぼ”にはまる。
もっと素直に、間違いは間違いとして改めることのできる人が勇気のある人であり、立派な人になることができるのであると思う。
問題は、様々な間違いやら行き違いを改めないことの方が”過ち”なのである。
改名は、自分の人生が間違いというところから出発するのではなく、「人にはいいところもあり、良くないところもある。そういう微妙なバランスの上に成り立っているのが人の心だ。」という観点から、できる限りその人の良い点を引き出してあげられるように、自分の持っている心のバランスを整えてあげるのである。
だから、これまでのような、様々なミスを「何度も繰り返す」というようなことがなくなるのである。
人は自分を改めたいと思っているが、「どうやって改めればいいのだろう?」と悩むのが常である。
その方法論でつまづくのだ。
どんなに哲学を学んでみても、それはかえって混乱を来すだけだし、世の中には惑わすものがいっぱいある。
理屈はいいから、自分を変える方法は?というのが本音だろう!
改名は、自分の過去を改めて、新たな出発をするための最も簡単で、しかも最も効果のある方法なのである。
「これを知らない人は”損”をすることになる。」と思う。
(5)臨機応変…(時と場合によって適切な対応をすること)
昔の人は大変便利だった。
何故かというと、時と場合によって使う名前を変えていたからである。
字や諱(本名)、役職や官位の名前、雅号や俳流の名前などを持っていて、これらを自由に使っていたからである。
ということはそれによって自分を変えていたのである。
例えば、友達同士では”くだけた関係”で何でもざっくばらんに話せるような”字”を使い、公式な場所では”役職名や官位名”を使って自分を公的な人格にまで高め、自分より目上の近親者には”本名”を使って、身内の話をしやすいようにして、などというように臨機応変に対応していたのである。
現代的な感覚からいえば、ちょうど出かける場所によって衣服を取り替えるようなものなのだ。
ファッション感覚で自分の名前を自由に使っていたといっていい。
ただ詐欺師のようにところかまわず人を欺くための名前の使い方ではない。
そこにはルールがあって、自分という人間の表現の仕方を昔の人は心得ていたのである。
だからもっと法律にとらわれない、通称(ペンネーム)として自分を自由に表現してもいいのではないかと思う。
それが、人生を楽しくする改名というものだと思う。
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