長崎県出身。共同テレビ専務、同エグゼクティブ・プロデューサーなどを経て、共同テレビ系列の番組制作会社バンエイト社長。ドラマのほか、映画や舞台のプロデュースも手掛ける。著書に「ワイルドサイド」。
「天皇の料理番」「さよなら李香蘭」「ヴァンサンカン・結婚」「29歳のクリスマス」「黒革の手帖」――。30年余にわたってドラマ制作の第一線に立ち続ける敏腕プロデューサーは、常に時代の空気を読み解く作品を仕掛けてきた。
ジャーナリストを目指して入学した早稲田大で、学生運動に傾倒した。「校門前で当局糾弾のビラを配り、教室でオルグ。不眠不休で常にフラフラ」。優の数が足りず、新聞社の受験はかなわなかった。
■教師を辞めて
たまたま2級教員免許を取っていて、卒業後は埼玉県内の女子高教師に。しかし、「高い志もない自分が教師でいいのか」という思いはぬぐえず、1年もたたずに辞めた。
程なく、学生時代にアルバイトをしていた喫茶店の主人から紹介された映画会社に入り、制作進行助手としてドラマの世界に足を入れた。「要するに何でも屋」。あいさつの仕方が悪い。用意した飯がまずい。そんな理由でカメラマンや照明助手から手や足が飛んだ。
高熱を押して働き続け、急性肺炎に胃腸障害を患い、ぜんそくも併発した。発病から10年たった頃発作で意識を失い、生死の境をさまよったこともある。
30歳を前にテレビ制作会社へ移ったが、先の見えない世界に見切りをつけようと、30歳になっていったんそこも辞めた。
だが、フィリピン・ミンダナオ島のジャングルに潜むゲリラの取材を知人から頼まれ、現地で別世界とも思える過酷な日常を目の当たりにした時、再びドラマ制作への情熱がわいた。自分は架空の世界でリアリティーを追う。その決意が固まった。
「時間よ、とまれ」で文化庁芸術祭優秀賞を得たのが1977年。96年には日本映画テレビプロデューサー協会のエランドール賞も受けた。
数々の受賞と重なって、多くの出会いもあった。渥美清もその一人。