風にいえば天皇を中心とした官僚機構独裁の共産政権が誕生したようなものなのです。
◇武士の台頭が私有財産の権利を獲得、自由主義につながる
人頭税的な共産主義的律令国家体制が終焉し、10世紀頃までに確立された王朝国家というのは、奈良時代・平安時代を通して次第に経営に成功した富裕百姓が、経営が破綻して口分田を失った零細百姓を吸収するという激動の実際的な背景から、百姓の偽籍・浮浪・逃亡によって個別人身支配ができず、税の徴収ができなくなった朝廷が富裕百姓を通して支配する公田に税を課す(名田)になることによって成立したものなのです。
この名田体制を確立強固なものにするために、現地の支配にあたる国司に大幅な権限を与えるようになりました。現地行政を行う中で、富裕百姓間などの紛争に武力が使われるようになり、紛争解決に大きな軍事力が必要になってきました。こうして軍事警察権を持った上級貴族が出現するようになり、彼らが武士団を形成するようになっていくのです。
11世紀になれば、墾田開発がさかんになり、開発した実質の領主達が土地の権利を認めてもらう為に、荘園に寄進して実行支配権を得て安定した収益を望むようになって、荘園公領制が出現するようになります。こうして律令制は崩壊し、実際の政治は現地の国司が行うようになっていきます。この国司には軍事警察権力を持った武士が任命されるようになり、この武士達は地方領主化して実行支配権を確立していくのでございます。
このように共産主義的な律令制度が崩壊し、限られた制度の中で自由競争により私有財産の獲得が行われるようになり、武士の実力競争へと発展していくようになりました。
◇源氏と平家は地方武士達の権利主張の代弁者
平安時代末期、朝廷内部の混乱でおこった保元の乱と平治の乱で頭角を現した平清盛が、太政大臣に任じられました。この清盛は、平家一門で官位を占め、清盛自身も天皇の外威となるなど、到底地方の実行支配者である武士の地位向上にはならず、中央貴族と何ら変わりなくなってしまったのです。実質的な自由競争により経済的な向上と、地位の確立を不動のものにしたい地方武士達の不満は一挙に高まります。平家は、時代の要求を理解していなかったのです。
地方での同時多発的な反乱が起こる中で、平家に変わる武家の統領として源頼朝が挙兵をしました。こうして、源氏による平家追いおとしが始まるようになったのです。
源平の争乱は、こういう歴史的な背景から起こった、自由競争を望む武士達の叫びであったわけです。
平家は貴族化する中でどうして自分たちが権力の中枢に昇るようになったかという歴史的な使命を忘れてしまっていたということなのでしょう。それほど都というところは、人の政治意識を狂わせてしまうところでもあるらしい。