(wikipediaより)
源 実朝(みなもとの さねとも、源 實朝、建久3年(1192年) - 建保7年(1219年))は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍である。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると十二歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えた。
歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として金槐和歌集がある。
驚いたことに源 實朝の運命式は、頼家とそっくりではないですか?
異なるのは社会運だけなのです。しかし、源 實朝公は兄の頼家のような価値観を持ち合わせてはなかったのです。仕事運にしても自分でリーダーシップをとるような強い運勢はしておらず、物事を思索したりよく考えたりする運勢を持っていたのです。ですから彼は政治よりは和歌などの文化に関心を持っていきました。和歌を通して彼は朝廷とのつながりを深めていったのです。そのことはまた、御家人集の心配事でもあったのです。この時すでに北条家が執権職についていて、公務を行っていた。源
實朝は朝廷とのつながりは深く、昇進も早かった。彼の関心事はやはり和歌に傾いていた。
そして、彼はついに武士としてははじめて右大臣に任じられる。祝賀の日がきた。
建保7年(1219年)1月27日、雪が二尺ほど積もる八幡宮拝賀の日を迎える。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを源仲章に譲る。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。享年29。公暁は次に源仲章を切り殺す。太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の首は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された。
御家人間の権力闘争の頂点にのっかていた源氏の統領ですが、これはあまりにむごいことになりました。単なる二代目の失敗が源家三代の滅亡へとつながるものなのでしょうか?
朝廷と武家集団との飽くなき権力闘争の狭間におかれたのが、武家の統領であるとしたら、避けられない宿命としてもこの出来事はひどすぎると思います。もっと別の原因があるのでは・・・・と。
■源家滅亡は義經の怨念のなせる業か?
ここで、あらためて源義經の運命式をみてみよう!それから、頼家、實朝の運命式を並立して表してみよう。何かが分かるかも知れないです。