確立すべく武士団を形成し、時の貴族からの権力を確立する中で、源平の争乱が起こり、鎌倉幕府が成立していくようになったのです。
■鎌倉幕府ー源政権は失敗したのか?
源頼朝の嫡流は三代で滅んでしまいました。どうしてこうなったのでしょうか?
そのことを考えてみることが、今後に重要なことになりそうです。
頼朝の突然の死により、相続をすることになった頼家は実は難しい状況におかれていたのです。それは、鎌倉幕府の御家人の中で、将軍家はちょうど頭の上の帽子のような存在でありましたから、将軍家が絶対的な権力を持っていたということではないのです。だからこそ2代目が重要となってくるのです。いつでも問題になるのが2代目です。この2代目がちゃんと治めきれないと政権というのは続いていかないのです。ちょうどバトンタッチのリレーゾーンのようなところです。
それでは、その源頼家という人はどんな人だったのでしょうか?源氏の将来はこの人に託されたのですからとても重要です。
<源 頼家の運命式>
24 14 30
11 40 29
27 26 39
(wikipediaより)
源 頼家(みなもと の よりいえ、寿永元年8月12日(1182年9月11日) - 元久元年7月18日(1204年8月14日))は、鎌倉幕府の第二代将軍(在任1202年
- 1203年)である。河内源氏後裔の源頼朝の長男、母は北条政子。正室は比企能員の娘若狭局。幼名は万寿。左金吾とも呼ばれる。子には、一幡、公暁、栄実、禅暁、藤原頼経の正室・竹御所がいる。
建久10年(1199年)父頼朝の急死により家督を相続。建仁2年(1202年)征夷大将軍宣下。源氏の嫡男として期待されていたが、側近や妻の実家である比企氏を重用し従来の習慣を無視した独裁的判断が目立った。疎外された母方の北条氏を中心とした有力御家人は将軍の権力確立を阻むべく十三人の合議制をしき、頼家の独断は抑えられた。建仁3年(1203年)8月、急病で危篤に陥ると、死後の相続は子の一幡と弟源実朝に分譲する合議が出される。反発した頼家は、比企氏と組み北条氏討伐を計るが、翌月に逆に比企氏は滅ぼされ(比企能員の変)、頼家は将軍職を剥奪され伊豆の修禅寺(静岡県伊豆市)に幽閉される。幽閉先の修禅寺では近隣の子供達と付近の山々を遊びまわったりして子供の面倒見は良かったらしく、現代でも愛童将軍地蔵というものが当地には残されている。翌年、北条氏からの刺客により暗殺。また、頼家の死体から大量の妖怪が生まれたという言い伝えがある。