◇源平争乱時代で、頼朝挙兵の軍に何故関東の平氏は
従ったのか?
治承3年(1179年)平清盛のクーデターで後白川法皇が幽閉され、安徳天皇が即位。皇位継承が絶望的となった以仁王が平氏追討の令旨を発して挙兵しました。
しかし、これは事前に発覚して以仁王を立てた源頼政一族は滅亡することになります。しかし、この令旨が地方の源氏に伝達されるようになると、それを受け取った源頼朝も挙兵をしたのです。この頼朝の挙兵に応じたのが関東一帯に勢力をはる平氏系武士でした。この当時、武士達の地位は低く領地の所有は不安定でしたから、武士の権利獲得のために、頼朝を立てたのです。だから、この源平合戦は単純に源氏と平氏の戦いということではなく、旧態依然たる貴族による支配体制を維持しようとする勢力と、武士という新しい自由主義的競争原理を持った武士団の権利確保という、貴族と武士の戦いであったのです。
当時の平家政権は貴族化して武士団の願いに応えるよりは、貴族社会の中に平家という武士が取り入れられてしまったというように考えていいと思います。
だからこそ、武士団の権利確保のために源氏平氏を問わず、地方の有力武士団は頼朝を担いだのです。
◇源頼朝とはどんな人か?
※源頼朝について!(wikipediaより)
源 頼朝(みなもとの よりとも、久安3年4月8日(1147年5月9日)正治元年1月13日(1199年2月9日)は、鎌倉幕府の初代将軍である。鎌倉頼朝ともいう。
平安時代末期に河内源氏嫡流の源義朝の三男として生まれ、平治の乱で父が平清盛に敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると平家打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。源義仲と平家を弟らによって破ると、戦いに活躍した源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられた。
これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれた。この政権は鎌倉幕府と呼ばれ、幕府による武家政権は、明治維新までの約680年間に渡り、存続することとなる。
先ずは源頼朝の運命式をみてみよう!
<源 頼朝の運命式>
26 14 30
13 42 29
29 28 41
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