前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えた。
建久4年(1193年)頼朝は富士の峯で大規模な巻狩りを催した。頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子へ知らせるが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返している。政子の気の強さを表す逸話である。この富士の巻狩りの最後の夜に曾我兄弟が父の仇の工藤祐経を討つ事件が起きた(曾我兄弟の仇討ち)。鎌倉では頼朝が殺されたとの流言があり、政子は大層心配したが鎌倉に残っていた範頼が「源氏にはわたしがおりますから御安心ください」と政子を慰めた。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼の言葉を聞いて猜疑にかられ、範頼は伊豆に幽閉されて殺されている。
このようなエピソードから、北条政子という人は、実に激しい性格を持っていたと思われますが、それよりもその激しさと同時に愛情の深さと政治的な判断能力の高さと、この人が尼将軍と呼ばれた理由が分かる気がすします。嘉禄元年(1225年)69才で死去しましたが、分からないことはそれほどの政治的な能力の高さを持ちながら、こと愛情問題に関しては寛容でいられなかったかが不思議なのです。この時代、子供をなすのは将来の安全保障のようなものなのだから、それを考えても妾を許せなかった政子という人はよほど頼朝に寄せる愛情が深かったのだろうと思います。それはそうと、
政子が買った夢は、日月を掌中に掴んだけれど、それと同じくらい悲劇も大きかったのではないでしょうか?
ちなみに「北条政子」という名前での運命式では、このような激しさは出てきません。
<北条政子の運命式>
15 12 21
8 24 16
17 12 19
北条政子の命名後、院(後鳥羽上皇)と幕府の対立の事件が、尼将軍としての政子の評価を確定したといって良いでしょう!
この時の政子の一世一代の名演説を聞いてみましょう!
「承久3年(1221年)皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った。上皇は義時追討の宣旨を諸国の守護と地頭に下す。上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きかった。」