※ここですでにご存じだとは思いますが、源義經の軍歴を紹介しておきましょう!
(wikipediaより)
黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信、佐藤忠信兄弟等およそ80騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。
平家(伊勢平氏)を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永元年(1182年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永2年(1183年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を破り、頼朝の代官として入京した。
この間に平家は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、鎌倉軍は一ノ谷の戦いで平家軍に大勝する。『平家物語』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『吾妻鏡』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。
一ノ谷の戦いの後の元暦元年(1184年)8月6日、後白河法皇によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。これに激怒した頼朝は義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。9月、義経は河越太郎重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。
範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平家の拠点屋島を速攻で攻略(屋島の戦い)。
範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して平家を滅ぼした。
■まとめ
結局「大化の改新」という革命政権がもたらした、官僚的計画経済に対して、自由主義的発展を望んだ多くの人々が、制度の矛盾が露呈するにつれて、自分たちの実行支配権を