こういう謀反の目を取り去って、北条政子や有力御家人であった大江広元らが1225年相次いで亡くなりました。3代執権北条泰時は、こういう上げ潮の運勢の時にトップに立つことになり、様々な災いの種も取り除かれての執権職就任でした。
ここで北条泰時が行ったことが「御成敗式目」の制定ということだったのです。
また、執権職を強化するために、連署という役職を設け(副執権のようなもの)評定衆を定め、裁判を公平化するように努めました。
御成敗式目がどういうものだったかということは、泰時が京都の六波羅探題を努めている弟の重時に送った手紙を見るとよくわかります。
「このたび、御成敗式目というものをつくりました。あなたもよくご存じのように、幕府はこれまでたびたび裁判をして争いごとを裁いてきました。しかし、その場合、同じような訴えであっても、強い者が勝ち、弱い者が負けてしまうというような不公平がたびたびありました。私はそんな不公平をなくし、身分の上下に関係なく、公正な裁判を行うための基準として、この式目をつくったのです。
この式目を見れば、都の公卿たちは「ものを知らぬ関東の田舎者が何を言うか」と笑うかもしれません。また、「裁判の基準になるものとしては、すでに立派な律令があるではないか」という人がいるかもしれません。
しかし、田舎には律令に通じている人など万人に一人もおりません。そんな人たちに律令の規定をあてはめて裁判をするというのは、たとえるならばケモノをワナにかけるようなものです。この式目は、そのような漢字が読めず、仮名(かな)しか知らないために律令の内容が理解できない地方の武士のためにつくったのです。
家来は主人に忠義をつくし、子は親に孝行するように、人の心の正直をたっとび、曲がった心を捨てた人々が安心して暮らせるように、ごく平凡な道理に基づいてつくったのがこの式目なのです。
この式目の内容は律令とちがっているところもありますが、律令を否定しようというのではありません。この式目は武家社会のみに通用させるものなのです。」
こうして、これまでの道理であった慣習を明文化して公平な裁判を迅速にできるようにしたのです。この功績は大きいと思います。