りません。それに、治天の君は英邁である後鳥羽上皇です。
そうなれば、朝廷側としては幕府の中が北条時政などによる権力闘争で弱体化している今こそ、好機到来と考えてもおかしくないのです。
時は1221年、満を持して準備をしてきた後鳥羽上皇は、5月14日流鏑馬を行う名目で自派の武士達を都に集め、翌5月15日ついに後鳥羽上皇は絶対の自信を持って北条義時追討の院宣を近畿西国の武士達に発し、檄を飛ばしたのです。
この院宣は鎌倉にすぐに知れ渡ることになりました。
鎌倉の武士達が動揺したのはいうまでもありません。治天の君や天皇の権威というのは、田舎の武士達からみれば、当時の常識からみれば「神聖にして侵すべからず」というほどの絶対的な秩序の中心でしたから、院宣に逆らうということがどれほど恐ろしいことかということです。
ですから鎌倉の武士達は皆朝廷軍に反旗を翻すなどということは考えられないことなのです。皆尻込みしてもおかしくはないのです。この鎌倉の危機に際して立ち上がったのが北条政子です。
先月号にも書きましたが、ここでもう一度北条政子の名演説を聞いてみましょう!
「政子は御家人たちを前に「最期の詞(ことば)」として「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の宣旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」
要するに後鳥羽上皇が起こした軍は、鎌倉革命政権に対する反革命である。だから、この反革命軍を打ち破らないと、武士達の未来は絶対にないぞということなのです。
これによって、御家人達は過去と現在を比較する余裕が生まれたのである。そして、自分たちにとって最善の道とは何かを考えることができるようになったことと、この院宣が不当な背後関係から出てきたものなどを推測できるようになったのです。それよりももっと重要なことは、御家人達の感情に政子の言葉は響いたのでしょう!
これまでの朝廷からの多くの不合理と苦しみの過去を思い浮かべれば、頼朝によってもたらされた「恩」は今こそ「奉公」で返すときがきたと納得したのです。