■モンゴル襲来の後の日本は・・・
元々鎌倉幕府は御家人を中心として、御家人の意見を反映させ、その利権を守る形で出発をした。現状と合わない朝廷支配を脱却するために独自の政権を朝廷に認めさせて革命政権を築いてきたのだが、その為に北条家による執権という形で朝廷に対抗する専制体制を築き上げてきた。北条家によるまがりなりにも国内の統一と平和を実現しようと躍起になってきたのだが、それが見えたときに社会はもう別の段階に進んでいたのである。
北条家の一人勝ちと負け組の御家人という構図が出てくるようになったのです。
◆御家人の困窮はシステムの矛盾
○「ご恩ー奉公」の基準がモンゴル襲来で崩れる
モンゴルの襲来で軍功をあげた御家人達は、当然幕府に恩賞を期待します。しかし、幕府にはモンゴルと戦っても土地を得たわけでもないし、ただ防戦しただけなので戦争に参加した御家人達に与える恩賞としての土地などがなかったのです。
それで、多くの御家人達が恩賞を幕府に求めてきたのです。この恩賞の交渉は5年の長きにわたりました。しかし、恩賞は少なかったのです。戦費の出費は重なり、異国警固番役という任務にも多額の出費がかかり、御家人達の不満はますばかりです。
しかしながら、一番の問題は、相続制度にありました。
○鎌倉幕府の相続制度が困窮の原因
鎌倉幕府の御家人の相続制度は、土地を子供達に女子も男子も平等に分配する分割相続制度でした。これは、土地がどんどん増えていくときはいいのですが、平和が続き土地が増えない状態が長く続くと、代を重ねるごとに土地は減り続け御家人はどんどん貧しくなるようになっていたのです。
それに、女性も同じように相続するわけですから、女性の権利も相当強かったのです。
ですから、女性は嫁いでも姓は変わりません。実家の姓を名乗るのです。例えば、北条政子などはその例です。いわゆる夫婦別姓ということです。現代よりは鎌倉時代の方が進んでいたということですね!
○貨幣経済の発達が自給自足経済に打撃を与えた
御家人達は、自給自足の生活が基本であった。しかし社会はどんどん貨幣経済の方向に向かっているので、現金収入を得る手段に乏しい御家人達は、貨幣経済に対応するために、大切な所領を切り売りすることをしてきたのです。